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本 堂
| 百々山 東明院 善楽寺 (とどさん とうみょういん ぜんらくじ) | |
|---|---|
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年代 | 大同年間(806〜810) |
| 開基 | 弘法大師 |
| 宗派 | 真言宗豊山派 |
| 所在地 | 高知県高知市一宮しなね二丁目23−11 (地図表示:マピオン) |
| 御詠歌 | 人多く立ち集まれる一の宮 昔も今も栄えぬるかな |
| メモ | 土佐神社の楼門をくぐって参道を進むと右手にある。 善楽寺は大同年間(806〜810)弘法大師の開創と伝えられ、古くは長福寺と称した。土佐一宮の別当で、明治の初めに廃寺となり、昭和4年(1929)に再興された。 30番札所の歴史は少々複雑な経緯をたどっている。もともと江戸時代以前の30番札所は御詠歌にもあるとおり土佐国一宮・高賀茂大明神(土佐神社)であり、別当の百々山神宮寺が納経を司っていた。同じく別当の善楽寺とともに、一社二寺で一宮を形成し、法灯が栄えていたのである。 しかし明治の廃仏毀釈により、神宮寺と善楽寺はともに廃寺となり、本尊(高賀茂大明神の本地仏)の阿弥陀如来(弘法大師作と伝えられる)をはじめ寺宝などは国分寺に移された。 明治9年(1876)、同じく廃寺となっていた安楽寺が再興されるに際し、国分寺にあった旧・神宮寺本尊の阿弥陀如来を譲り受け、30番札所として公認された。 ところが昭和4年(1929)、現在のさいたま市にあった東明院を移転する形で善楽寺が再興され、国分寺から旧・神宮寺の寺宝や弘法大師像を引き継ぐと、弘法大師ゆかりの霊場として、30番札所を称するようになった(安楽寺は菅原高視が父・道真を弔うために建立した寺院で、弘法大師とは直接関係ない)。 以来、30番札所が二ヶ所並立する形となり、先達も迷う「遍路迷わせの札所」とも言われた。両方を参拝するケースもあったようである。後に善楽寺を弘法大師開創の霊場、安楽寺を本尊奉安寺院として、どちらを参拝してもよいということで一応の解決を見た。 私が平成元年に巡拝したときはその状態であったが、徒歩で参拝するには、やはり本来の札所である善楽寺のほうが便利であるため、善楽寺に参った。 さらに平成6年(1994)より、善楽寺を30番札所、安楽寺を奥の院とすることで正式に決着した。ただし、安楽寺を奥の院とすることは、私が巡拝する以前から決まっていたようである。昭和58年(1983)発行の『高知県の地名』(平凡社)他の資料を見ると、既に安楽寺を奥の院とする記述が見える。 ※追記:安楽寺を奥の院にするという取り決めは昭和17年(1942)になされたようである。 |
| 参考 | 江戸時代以前の神仏習合の様子については、単に神社と神宮寺(別当)がセットになっているというだけではなく、ほぼ一体の存在として区別できないケースがしばしばあった。 例えば、江戸時代以前の土佐神社(高賀茂大明神)は、神社としてみれば高賀茂大明神、お寺としてみれば神宮寺というような感じである。 こういった様態は、明治の神仏分離で神社の境内から仏教的な要素が排除されたため、今はほとんど見ることができないが、日光などは当時の様子を比較的よく残している。日光では、東照宮と二荒山神社、輪王寺の建物が混在しているが、これはもともと一体の存在であったからである。 本尊も、神様としての高賀茂大明神と本地仏の阿弥陀如来は同じとして観念されていた。阿弥陀如来が高賀茂大明神として垂迹しているので、いわば高賀茂大明神を通じて阿弥陀如来を礼拝するわけである。そこで、納経帳には「高賀茂大明神御宝前・神宮寺」というようになる。 江戸時代以前の神社やお寺は、現在とはずいぶん違ったものだったのである。 |

| 御朱印 | 左が平成元年、右が平成19年に拝受したもの。中央の墨書は阿弥陀如来の種字「キリーク」に「阿弥陀如来」、左は「土佐一之宮」。中央の朱印は宝珠に梵字「キリーク」。左下の朱印は、平成元年のものが「本尊奉安安楽寺・開創霊場善楽寺」、平成19年のものが「土佐一宮善楽寺」。 |
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2007.06.03
改訂:2007.06.10
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