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古今御朱印研究室

四国八十八ヶ所

第62番
天養山 宝寿寺
〔てんようざん ほうじゅじ〕

宝寿寺本堂
本 堂

天養山 観音院 宝寿寺 (てんようざん かんのんいん ほうじゅじ)
本尊 十一面観世音菩薩
創建年代 天平年間(729〜49)
開基 聖武天皇
宗派 高野山真言宗
所在地 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428 (地図表示:マピオン)
御詠歌 五月雨のあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かわ
文化財 〈県有形文化財〉孔雀文磬
メモ この寺の歴史は解釈が難しい。まずは縁起を見てみる。
天平年間(729〜49)聖武天皇の勅願によって一宮を建立した際、伊予国一宮の法楽所として建立され、金剛宝寺と称した。聖武天皇は金光明最勝王経を奉納し、道慈律師〔どうじ りっし〕に講読させたと伝えられる。
大同年間(806〜10)弘法大師が巡錫した折、光明皇后をかたどって十一面観音を刻み、本尊として安置したとされる。また、国司・越智氏の夫人が難産で苦しんでいたため、境内の玉の井の水で加持したところ、無事に男児を出産した(その子を玉の井に因んで玉澄と名付けたともいうが、越智玉澄は奈良時代の人で、時代が合わない)。そのため、今も本尊は安産の観音としても信仰を集めるという。
元の寺地は中山川下流の白坪であるが、たびたび川が氾濫して境内が荒廃した。天養年間(1144〜45)に再建されたので天養山と称するようになった。
その後、寺運は栄えるが、豊臣秀吉による天正13年(1585)の四国征伐で焼失。寛永年間(1624〜44)小松藩主・一柳氏によって現在地に移転再建された(ただし、澄禅の『四国辺路日記』を見れば、一之宮神社は現在地にあって、そこで札を打った後、白坪の宝寿寺で納経を行ったようである)。そのため、真念の『四国遍路道指南』によれば、元は一之宮(宝寿寺)−香園寺横峰寺と打っていたのが、それ以降、現在のような順番で打つようになったという。
明治の神仏分離で廃寺になるが、同10年(1877)再興され、大正10年(1921)鉄道開通のため、現在地に移転した。
さて、問題は「伊予一国一宮」の解釈である。一宮の法楽所として創建されたという由緒により、境内入口には「一国一宮」の標識が建つ。その一宮は、駅をはさんで北側に鎮座する一之宮神社で、「一国一之宮神社」の社号標が建つが、旧新屋敷村鎮守の小さな社である。
言うまでもなく、伊予国一宮は大三島の大山祇神社であり、札所としては55番南光坊(旧札所は別宮大山祇神社)ということになる。一宮の変動があったと推測される阿波国(13番一宮神社=大日寺→1番奥之院大麻比古神社)とは違い、大山祇神社以外の神社が一宮を称したとは考えられない。
そこで参考になるのが、新居浜市の一宮神社に代表される、伊予国各地の一宮(いちのみや/いっく)神社である。さして大きな神社ではないところが大半で、たいてい大山祇神社からの勧請で、三島神社とも称するところが多い。賢明の『空性法親王四国霊場御巡行記』には数多くの一宮が登場する。越智・河野の一族が各地に移り住んだ際、氏神であり、伊予国一宮でもある大山祇神社の分社を祀り、一宮神社と称したのではないかと考えられる。小松の一之宮神社もその一つではないかと推測されるのである。
ただ、問題は小松の一之宮神社は御祭神を大国主命と大山祇神とすることである。大山祇神は大山祇神社の御祭神だが、神紋は亀甲であり、三島神社と言うより大国主命を主祭神とする出雲系の神社という印象を受ける。空性法親王の御巡行記では「大国主の一の宮」がこれと思われ、単純に大山祇神社の分社とも断定しがたい。
一之宮神社の社伝では、天平宝字年間(757〜765)大己貴命(=大国主命)の神託があり、聖武天皇の勅願によって周布郡井出郷白坪の地に一之宮神社が創建されたとする。
札所である以上、天正以前はそれなりの規模を持っていたと考えられるが、この地方は豊臣秀吉の四国征伐で神社仏閣がことごとく焼失しているため、古記録が残っておらず、往時の様子を知ることができないのが残念であるが、四国霊場の成立過程を推測する手がかりとなるように思われる。
大師堂 寺号標(一国一宮別当宝寿寺)
大師堂 寺号標(一国一宮別当宝寿寺)
御朱印 左が平成元年、右が平成18年に拝受したもの。中央の文字は十一面観音の種字「キャ」に「大悲殿」。大悲殿は観世音菩薩を祀るお堂のこと。中央の朱印は宝珠に同じく梵字の「キャ」、左下は「天養山観音院宝寿寺」。
平成元年の納経印 平成18年の納経印

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2007.09.23
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