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古今御朱印研究室

四国八十八ヶ所

第66番
巨鼇山 雲辺寺
〔きょごうざん うんぺんじ〕

雲辺寺本堂
本 堂

巨鼇山 千手院 雲辺寺 (きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)
本尊 千手観世音菩薩
創建年代 延暦8年(789)
開基 弘法大師
宗派 真言宗御室派
所在地 徳島県三好市池田町白地ノロウチ763−2 (地図表示:マピオン)
御詠歌 はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今は麓にぞ見る
文化財 〈重要文化財〉木造千手観音坐像 木造毘沙門天立像 絹本著色聖衆来迎図
メモ 阿波と讃岐の国境にそびえる雲辺寺山の頂上近くにある。標高900m余り、その名の通り八十八ヶ所中最も高い場所にある札所であり、山上からは阿波・土佐・伊予・讃岐の四ヵ国を眺めることができる。
以前は遍路ころがしと呼ばれる難所の一つであったが、現在はロープウェイで簡単に参拝することができる。かつての規模には及ぶべくもないとはいえ、険しい山中にこれほどの大伽藍があることに驚かされ、先人の信仰の篤さに心を打たれる。
所在地は阿波(徳島県)だが、古来、讃岐・涅槃の道場の札所とされる。讃岐の関所寺でもある。
寺伝によれば、延暦8年(789)当時16歳だった弘法大師が寺の建築用材を求めて当地を訪れ、霊山の趣きに感動して開創したとされる。さらに大同2年(807)、唐から帰朝した大師は嵯峨天皇の勅願を奉じ、仏舎利と毘盧舎那法印を納めたという。
鎌倉時代には七堂伽藍が整備され、寺運は隆盛した。山内には阿波・土佐・伊予・讃岐の各坊があって四国坊と称し、各地から学僧が集まって四国高野と呼ばれた。伊予の関所を兼ねていたともいう。
しかし、火災に遭うことたびたびで、その都度再建されたが、室町時代には、次第に郷坊の地蔵院(萩原寺)が実権を持つようになったようである。
天正年間(1573〜92)、雲辺寺山に登った長宗我部元親は、旧知であった住職の俊崇坊に四国統一の野望を語った。これに対して俊崇坊は「あなたは土佐一国の主の器であって、それが四国の主になろうというのは茶釜の蓋で水桶の蓋をしようとするようなものだ」と諫めた。これを「裏山問答」という。
しかし、元親は俊崇の諫言を聞かずに兵を進め、天正13年(1585)春、ついに四国を統一した。しかし同年6月、豊臣秀吉が四国征伐の軍を起こして、阿波・讃岐・伊予の三方から進撃。同年8月、元親は降伏し、結局、俊崇の言葉の通り土佐一国の領主に納まった。
阿波・讃岐の多くの寺院と同様、雲辺寺も長宗我部の兵火により炎上、後に阿波の国主・蜂須賀氏によって再興され、祈願所となった。
境内には石の五百羅漢が並ぶ。弘法大師が唐に第一歩を記した福建省赤岩鎮にある五百羅漢院の羅漢像を模したものとのこと。また、本堂脇の「おたのみなす」は、「親の意見となすびの花は万に一つの徒もない」ということわざのようにナスの花は一つの無駄もなく実になるといい、また「成す」と語呂が同じところから、努力が報われ、願いが叶うという。
雲辺寺の奥之院は三好市山城町の長福寺、前札所は観音寺市大野原町の萩原寺(別格16番)である。
山門 大師堂
山門 大師堂
おたのみなす 水堂
おたのみなす 水堂
御朱印 左が平成元年、右が平成18年に拝受したもの。中央の文字は千手観音の種字「キリーク」に「千手観音」。中央の朱印は宝珠に千手観音の種字「ベイ」・不動明王の種字「カーン」・毘沙門天の種字「ベイ」、左下は「巨鼇山雲辺寺」。
平成元年の納経印 平成18年の納経印

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2007.10.07
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