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古今御朱印研究室

四国八十八ヶ所

旧第62番札所
一之宮神社
いちのみやじんじゃ

一之宮神社拝殿

一之宮神社 (いちのみやじんじゃ)
御祭神 大国主命〔おおくにぬしのみこと〕
〈配祀〉
事代主命〔ことしろぬしのみこと〕
大山積尊〔おおやまづみのみこと〕
別称 一国一宮
創建年代 天平宝字年間(757〜65)
創建 聖武天皇
所在地 愛媛県西条市小松町新屋敷 (地図表示:マピオン)
御詠歌 さみだれの後に出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かわ
メモ 社伝によれば、天平宝字年間(757〜65)大己貴命(大国主命)の神託を受けた聖武天皇の勅願により、周布郡井出郷白坪(地図表示:マピオン)に創建され、一国一宮と称されたという。『空性法親王四国霊場御巡行記』には「大国主の一の宮」と見える。
しかし、中山川の洪水に悩まされるため、万治年間(1658〜61)別当・宝寿寺のあった現在地に遷座した。それ以前、遍路は白坪の一之宮で札を打った後、宝寿寺で納経し、香園寺横峰寺の順にまわっていたという。
寛永13年(1636)小松藩の初代藩主となった一柳直頼は当社と三嶋神社・高鴨神社を三社の氏神と定め、歴代藩主の崇敬を受けた。
明治の神仏分離により、宝寿寺と分離。さらに鉄道の開通により宝寿寺が小松駅の南側に移転した。一之宮神社の南、靖国神社のあるあたりが宝寿寺の旧境内とのことである。また、境内の片隅には宝寿寺歴代住職の墓所も残っている。
一之宮神社の宮司さんは仕事の関係で他市に住んでいるため、平素は不在。正月ならいらっしゃるだろうと思って1月2日に参拝、御朱印をいただき、いろいろ話を聞くことができた。
幕末の藩主であった一柳頼紹は勤王の志高く、自ら軍を率いて京都に滞在し、三条実美らと親交があったという。文久3年(1863)の七卿落ちに際しては、一時、実美を当社でかくまったとのこと。そのため、後に三条実美が奉納したという絵馬が拝殿に掲げられている。
さて、宝寿寺のところでも触れたが、62番一国一宮と伊予国一宮大山祇神社(及び64番別宮大山祇神社南光坊)の関係についての解釈は難しい。たいていの四国遍路の案内書は軽く由緒に触れるだけである。
この点について、宮司さんは一之宮神社が伊予国の一宮という認識はしていないようで、むしろ別宮と同じく大三島の遙拝所であったと考えているようだった。現在、旧鎮座地の白坪は干拓のために海岸線から遠くなっているが、元は中山川の河口であり、当地方から大三島に向かう際の船着き場であったという。
とすると、宝寿寺のところで推測したように、一之宮の社名も、伊予国一宮大山祇神社からの勧請、もしくは大三島の地御前ということをしめすものとみてよいのではなかろうか。事実、河野氏は勢力範囲の各地に三島明神を勧請し、空性法親王の御巡行記には、大三島から勧請したと見られる多くの一の宮の名が見られる。
因みに井出郷総鎮守で、越智玉興・玉澄父子による勧請と伝える三嶋神社は、由緒書によれば「新宮地の御前」を称したという。井出の郷名で呼ばれたのではないというのは、一之宮神社も地御前であったことの傍証になるのではないかとも思われる。
問題は主祭神が大国主命で、神紋が亀甲であることだが(大山祇神社及びその分社は大山祇神を主祭神とし、神紋は「御敷に三文字」)、大山積神を相殿に祀るところからみて、大山祇神社の分社と大国主命を祀る神社が合祀されたものではないだろうか。
鳥居と幟(例祭時) 本殿
鳥居と幟(例祭時) 本殿
三条実美公奉納の絵馬 旧宝寿寺境内
三条実美公奉納の絵馬 旧宝寿寺境内
一之宮神社の御朱印

中央の墨書は「一之宮神社」。上の朱印は「御璽」、下は「一宮社印」。

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2008.05.04
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