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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

日吉八幡神社
ひえはちまんじんじゃ

日吉八幡神社拝殿

日吉八幡神社 (ひえはちまんじんじゃ)
御祭神 大山咋神〔おおやまくいのかみ〕
誉田別命〔ほんだわけのみこと〕
鎮座地 秋田県秋田市八橋本町一丁目4−1 (地図表示:マピオン)
創建年代 平安時代後期
社格等 旧県社
由緒 日吉八幡神社の創建に関しては資料によって異同があるので、それぞれの説を掲載することにする。
『平成「祭」データ』によれば、平安時代の後期、前九年の役で破れた安倍宗任が比叡山で修験者となり、晩年、外旭川(秋田市下新城笹岡)に近江の日枝山王(日吉大社)と石清水八幡宮を勧請して日吉山延命寺無量寿院を建立したことが創祀という(ただし、歴史的事実としては、宗任は筑前大島に配流され、同地で亡くなっている)。その後、元亨2年(1322)に新城の館主がここに日吉山八幡宮を造営したとある。
これに対して、御朱印拝受の時にいただいた由緒書では、元亨2年に外旭川に勧請したのが始まりとしている。
応永2年(1395)大檀那の沙弥安宗により現在の上新城中学校の地に移された。さらに天正17年(1589)安東(秋田)実季は土崎湊の安東道季との湊合戦に際して戦勝祈願し、勝利の後、守護神として飯島に遷座した。
慶長7年(1602)秋田六郡の領主となった佐竹氏の崇敬も篤く、久保田(秋田)の城下町を開くに際して、日吉八幡を八橋狐森に遷し、町人の居住地である外町の総鎮守とした(因みに、武士の居住地である内町の総鎮守は八幡秋田神社)。
寛永9年(1632)久保田大洪水(白髭水)のために社殿が大破ため、同19年(1642)八橋の現社地に遷座した。明和7年(1770)久保田の大火で社殿が焼失、現在の拝殿は安永7年(1778)、本殿は寛政9年(1797)に再建されたものである。
由緒書には明治30年(1897)山王・八幡の両社を合祀して「日吉八幡神社」になったとあるが、これに関してはよくわからない。
例祭 春季例祭:旧暦4月中の申の日
秋季例大祭:9月15日
※9月14日の宵宮に御差鉾神事が行われる。
神事・行事 2月15日/どんと祭(※由緒書のまま。とんど祭か?)
文化財 〈県有形文化財〉本殿・拝殿・舞殿・随神門・三重塔・青銅鳥居など4棟12基
メモ 境内に県指定の有形文化財が16件あり、県内最大を誇ることから「歴史の宝庫」と称されるそうだ。また、東参道から進めば鳥居と狛犬が並ぶ神式の配置、北参道から入れば随神門(旧寿量院の山門を移築したもの)や三重塔といった仏式の配置になっており、興味深い。
歴史的経緯から例大祭にも特徴がある。氏子である外町から八橋の日吉八幡までは参拝が不便であるため、氏子が神社に参拝するのではなく、秋季例大祭前日の宵宮に、神社の大御幣が外町の氏子を巡行する「御差鉾行列」が行われる。
また、9月15日に行われる神輿の渡御行列では、飯島の人々が2基の神輿を担ぐ。これは、飯島に鎮座していた文禄3年(1594)に京より神輿を購入し、初めて飯島・穀丁間の渡御行列が行われて以来の伝統である。かつて、神輿は外町の氏子が担ぐべきであるという議が起こり、外町の若衆が担ごうとしたが、神輿はまったく動かなかった。そのため、神様が飯島衆にだけ与えた役目と言い伝えられ、現在に至るまでその伝統が守られているとのことである。
東参道 舞殿
東参道 舞殿
随神門 三重塔
随神門 三重塔
大山祇神社 本殿
大山祇神社 本殿
日吉八幡神社の御朱印

中央の朱印は「秋田八橋 日吉八幡神社印」。

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2010.05.26
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