古今宗教研究所 >古今御朱印研究室 > 諸国神社御朱印集 > 秋田県

古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

彌高神社
いやたかじんじゃ

彌高神社拝殿

彌高神社 (いやたかじんじゃ)
御祭神 神霊眞柱大人命〔かむたまのみはしらうしのみこと〕
 (平田篤胤大人命〔ひらたあつたねうしのみこと〕
佐藤信淵大人命〔さとうのぶひろうしのみこと〕
旧称 平田神社
鎮座地 秋田県秋田市千秋公園1−16 (地図表示:マピオン)
創建年代 明治14年(1881)
社格等 旧県社
由緒 明治14年(1881)、平田篤胤を顕彰するために小谷部甚左衛門ら門人有志が八橋の日吉八幡神社境内に平田神社を創建した。同42年(1909)、秋田県教育会が中心となり、旧県社八幡神社(明治40年に秋田神社と合祀して八幡秋田神社となっている)の社殿を購入修繕して平田神社をここに遷すとともに、佐藤信淵を合祀して彌高神社と改称した。この社号は旧藩主・佐竹義和による藩校・明徳館の題額「仰之彌高」に因む。
大正5年(1916)現社地に移転、同8年(1919)県社に昇格した。
祭神の平田篤胤は荷田春満〔かだのあずままろ〕・賀茂真淵〔かものまぶち〕・本居宣長とともに国学の四大人〔しうし〕と称される国学者・神道家である。その思想は尊王攘夷の支柱となり、明治維新の原動力となった。
安永5年(1776)久保田藩士・大久保祚胤の四男として久保田城下(現在の秋田市)に生まれる。20歳で江戸に出て、さまざまな職業に就きながら苦学する。25歳のときに備中松山藩士・平田篤穏〔ひらたあつやす〕の養子となる。
享和元年(1801)本居宣長の没後の門人となる(同3年ともされる)。同3年(1803)28歳の時、処女作『呵妄書〔かもうしょ〕』を著し、太宰春台の『弁道書』の日本蔑視を論駁している。文化3年(1806)私塾・真菅乃屋を開く。同13年(1816)気吹舎と改称している。
以来、『古道大意』『俗神道大意』『霊能真柱〔たまのまはしら〕』『古史成文』『古史伝』など百部千余巻という著作をものにしている。その研究は仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教に及び、さらに西洋医学・ラテン語・暦学・易学・軍学にも精通していた。
文化5年1808)には白川神祇伯家より諸国の神職への古学の教授を委嘱され、伯家学則を改訂している。さらに文政6年(1823)には神祇管領の吉田家からも古学の教授を依頼されている。いわば全国の神職に古道を教授する立場になったわけである。
天保12年(1841)『天朝無窮暦』の内容が問題となり、幕府より久保田への国許退去・著述差留を命じられる。同14年(1843)68歳で没す。弘化2年(1845)白川家より「神霊眞柱大人〔かむたまのまはしらうし〕」の号を贈られた。墓所は秋田市手形の広沢山にあり、国の史跡に指定されている。
佐藤信淵は平田篤胤の門人の思想家で、経済学者・農学者・兵学者・農政家でもある。
明和6年(1769)雄勝郡西馬音内郷(現在の雄勝郡羽後町)に生まれる。父の死後、遺訓に従って江戸へ上り、蘭学・経世学・天文・地理・暦算・測量・動植物の学などを学び、さらに諸国を遍歴して学を深めた。寛政6年(1794)江戸京橋で医業を始めるが、同9年(1897)母の死に遭って上総国山辺郡大豆谷村(現在の東金市)に移り、晴耕雨読の生活を送る。
文化12年(1815)47歳の時、平田篤胤の門に入る。同じ頃、幕府神道方の吉川源十郎にも入門したが、同13年(1816)神道講談所問題に連座して江戸払いとなり、船橋大神宮に移った。その翌年には大豆谷村に移っている。その後、諸国を遊歴し、農政漁法の指導や、諸侯の顧問となって藩政の改革を行ったりした。
弘化3年(1846)許されて江戸へ帰り、嘉永3年(1850)82歳で没す。墓所は浅草の松応寺(現在は杉並区高円寺南に移転)。
信淵の学は農学をはじめ政治・経済・哲学・天文・兵学・医学・光山・拓殖・治水に及び、著作は三百種八千巻といわれる。実学的・実際的な内容から理論的・観念的な分野まで多方面にわたり、特に国家経営については、江戸を東京と改称して王都を遷し、全国を十四の行政区に分割して、重商主義・絶対主義的な国家を構想するなど、時代を先取りした思想家としての側面を持つ。
例祭 5月2日
神事・行事 4月第4日曜日/神輿渡御祭
5月上旬〜下旬頃/神饌田御田植祭
6月15日/佐藤信淵大人命生誕祭・献華の儀
8月24日/平田篤胤大人命墓前祭
9月下旬頃/神饌田抜穂祭
文化財 〈県有形文化財〉本殿・拝殿
公式サイト http://www.iyataka-jinja.jp/
メモ 久保田城跡・千秋公園内に鎮座する。明治の創建ではあるが、社殿は江戸時代のものなので、周囲の深い緑と合わせて年古りた社という印象である。本殿・拝殿ともに県指定の有形文化財だが、残念ながら本殿はよく見えない。
神社の創建は明治維新の先駆者たる思想家の顕彰という意義が大きかったのであろうが、現在では学問の神様という位置づけのようである。たしかに、博覧強記という点では祭神二柱ともひとえに感嘆するしかない。
平田篤胤を祀る神社としては、他に東京都渋谷区の平田神社がある。これは明治の初め、平田家の邸内社として創祀されたものである。また、雄勝郡羽後町には佐藤信淵を祀る信淵神社があるようだ。
参考 国学四大人には、それぞれを祭神とする旧府県社クラスの神社がある。すなわち荷田春満を祀る東丸神社(京都市伏見区)、賀茂真淵を祀る縣居神社(浜松市中区)、本居宣長を祀る本居宣長ノ宮(三重県松阪市)、当社である。
鳥居 平田篤胤の歌碑
鳥居 平田篤胤の歌碑
「平田篤胤先生生誕之地」碑 平田篤胤の墓(国史跡)
「平田篤胤先生生誕之地」碑 平田篤胤の墓(国史跡)
彌高神社の御朱印

中央の朱印は「彌高神社璽」、右下の朱印は「縣社彌高神社社務所章」。

もどる


2010.05.26
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.