中央の朱印は「棚倉坐都都古和氣神社」、右は「陸奥一宮」。
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都都古和氣神社(つつこわけじんじゃ) | |
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御祭神 | 味耜高彦根命〔あじすきたかひこねのみこと〕 〈相殿〉 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕 |
旧称 | 都都古別神社 近津大明神 |
通称 | 馬場都々古別神社 馬場都都古別神社 |
鎮座地 | 福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字馬場39 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 伝・景行天皇の御代(71〜130) |
社格等 | 式内論社(名神大) 旧国幣中社 陸奥国一宮 別表神社 |
由緒 | 社伝によれば、この地方の東夷を平定した日本武尊が、都々古山〔つつこやま〕(白河市表郷三森、建鉾山〔たてほこやま〕とも)に鉾を建て、味耜高彦根命を祀ったことに始まるとされる(建鉾山には古代の祭祀場の跡がある)。 大同2年(807)坂上田村麻呂〔さかのうえのたむらまろ〕が伊野荘(現・棚倉城趾)に奉遷し、日本武尊を相殿に祀ったという。 延喜式所載の名神大社で陸奥国一宮の都都古和気神社とするが、同じ棚倉町内の八槻地区にも都都古別神社があり、同じく式内名神大社・陸奥国一宮を称する。両者を区別するためにそれぞれの鎮座地の名を冠し、馬場都々古別神社・八槻都々古別神社と呼ぶ。 祭神も同じで、都々古山(建鉾山)を起源とする由緒にも共通点が多いものの、元々一体のものであったのか、どちらか一方から分祀したのか、それとも別の神社が同じ名を称しているのか、いずれともわからない。 江戸時代まではどちらも近津大明神〔ちかつだいみょうじん〕と称していた。久慈川沿いに鎮座する馬場・八槻の都々古別神社と下野宮の近津神社(茨城県久慈郡大子町)を総称して近津三社ともいい、八溝山〔やみぞざん〕と深く関わっていた。馬場の都々別神社は位置的関係から上之宮とも称した。馬場は高野郡(現・東白川郡)北郷〔きたごう〕の、八槻は南郷〔なんごう〕の、下野宮は依上保〔よりがみほ〕(茨城県大子町の辺り)の総鎮守として崇敬を集めていた。 明治にいずれを式内社とするかで大論争があったが決着がつかず、両社並立とされた経緯がある。いずれにせよ、どちらも多くの文化財を蔵し、古い歴史を誇る古社である。 なお、近津三社がいずれも弘仁3年(811)に開かれた官道沿いに鎮座することから、遷座(もしくは鎮座)はこれ以降のこととする説もある。 中世以降は神仏習合の修験道場として発展した。別当・不動院の高松氏(馬場別当と称した)は高野郡北郷一円の熊野修験を統括し、さらに政治・軍事も司った。 白河の結城氏、後にこの地を支配した佐竹氏をはじめ、武家・将軍から篤い崇敬を受けた。現在の本殿は文禄年間(1592〜96)豊臣秀吉の命によって佐竹義宣が造営したものである。 寛永元年(1624)丹羽長重が棚倉城を築くに当たって社地を譲った。現社地を替え地として与えられ、社殿を解体移築して同2年(1625)に遷座する。江戸時代は幕府より朱印領を寄進されていた。 明治6年(1873)国幣中社に列格。この時、太政官符に「別」の字が用いられていたことから「都々古別神社」と称するようになったが、戦後は「和氣」の字に復している。 |
例祭 | 9月6日 または第2日曜日 |
神事・行事等 | 5月1日(太々神楽講祭) |
文化財 | 〈重文〉長覆輪太刀 長覆輪太刀 赤絲威鎧残闕付二十五間四方白星兜鉢 扇面懸仏 〈県有形文化財〉銅造線刻薬師如来懸仏 銅造線刻十一面観音懸仏 銅造阿弥陀如来懸仏 銅造薬師如来懸仏 鉾形祭具 |
メモ | 棚倉城趾から500mほどのところに参道がある。石段を登ると神門があり、緑に包まれた境内が広がる。桜が咲き始めており、すがすがしい印象。かつての経済基盤が失われた過疎地の古社というのは、どうしても寂れた雰囲気になるもので、当社も例外ではないのだが、境内を包む社叢、手入れされた庭木と相まって(季節もあるのだろうが)味わい深い雰囲気を作り出していた。 この辺りは公共交通機関がきわめて不便なので、自家用車などを使うのが無難だが、棚倉城趾や蓮生寺(親鸞聖人二十四輩の一)など見所もあるので、列車の時間までゆっくり過ごすのもよい。 |
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鳥居と参道 | 随神門 |
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拝殿 | 本殿 |
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中央の朱印は「棚倉坐都都古和氣神社」、右は「陸奥一宮」。
2008.01.20
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