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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

報徳二宮神社
ほうとくにのみやじんじゃ

報徳二宮神社拝殿

報徳二宮神社 (ほうとくにのみやじんじゃ)
御祭神 二宮尊徳命〔にのみやそんとくのみこと〕
〈配祀〉
二宮尊行命〔にのみやそんこうのみこと〕
冨田高慶命〔とみたこうけいのみこと〕
鎮座地 栃木県日光市今市734 (地図表示:マピオン)
創建年代 明治31年(1898)
社格等 旧県社
由緒 二宮尊徳は江戸時代後期の農政家。書物を読みながら薪を背負って歩く二宮金次郎の像で知られる。
天明7年(1787)、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)に生まれた。酒匂川の氾濫で田畑が流されて家は没落、両親は過労で亡くなり、兄弟は別々に親戚に預けられた。
尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に預けられ、そこで農作業に従事するかたわら勉学に励んだ。そして荒れ地を開墾し、そこに田植え後捨てられている余った苗を植えて収穫を上げ、貯めたお金で田畑を少しずつ買い戻すと、それを小作に出すなどして収入を増加させ、24歳で実家を再興した。
その後、小田原藩家老・服部家の財政立て直しに成功すると、その能力を見込まれて下野国桜町領(小田原藩主・大久保家の分家である宇津家の領地)の立て直しを依頼され、さらに真岡代官領の経営にも成果を上げる。その手法は報徳仕法と呼ばれ、600ヶ所以上で藩の財政再建や農村の復興などが行われた。
嘉永6年(1853)幕府の命により日光神領での仕法にとりかかる。安政3年(1856)今市(現在の日光市今市)の報徳役所にて没する。
明治24年(1891)従四位が追贈される。尊徳の威徳を敬仰する地元や全国の有志により、終焉の地である今市に神社を創立する気運が高まり、同26年(1893)社殿を起工、同30年(1897)竣工。翌31年(1898)鎮座祭が執り行われた。

なお、配祀の二宮尊行は尊徳の嫡子で、尊徳の死後、日光仕法を引き継いだ。冨田高慶は尊徳の四大門人の一人で日光仕法・相馬仕法に従事、また『報徳記』を著した。
例祭 11月17日
神事・行事 5月第3日曜/田植え祭
文化財 〈県史跡〉二宮尊徳の墓
公式サイト http://ninomiya3.jp/
メモ 二宮尊徳を祀る神社としては、他に小田原の報徳二宮神社や真岡市(旧・二宮町)の桜町二宮神社などがある。
今市は尊徳終焉の地であり、社殿の背後には二宮尊徳の墓所がある。栃木県の史跡に指定されている。当初、尊徳の遺言により墓石は建立されていなかったが、忌明けの安政4年(1857)門人の間に墓碑建立の議が起こり、賛否がなかなか決しなかった。そこで、尊徳夫人の意志を伺って墓碑を建立するに至ったという。
境内には墓所の他、尊徳翁の像や歌碑、おなじみの二宮金次郎の像、宝物館(報徳文庫)などがある。
一の鳥居 二宮尊徳像
一の鳥居 二宮尊徳像
二宮金次郎像 歌碑
二宮金次郎像 歌碑
本殿 二宮尊徳の墓所
本殿 二宮尊徳の墓所

中央上の御朱印は「報徳二宮神社之璽」、下は参拝記念のスタンプのようで、簡略化された神紋の木瓜に二宮金次郎像と鳥居と社殿、下に「今市報徳二宮神社」とある。

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2010.03.31
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