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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

三芳野神社
みよしのじんじゃ

三芳野神社拝殿

三芳野神社 (みよしのじんじゃ)
御祭神 素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕
奇稲田姫命〔くしいなだひめのみこと〕
〈配祀〉
菅原道真〔すがわらのみちざね〕
〈合祀〉
誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕
旧称 三芳野天神
鎮座地 埼玉県川越市郭町二丁目25−11 (地図表示:マピオン)
創建年代 大同2年(807)
社格等 旧県社
由緒 川越城本丸の東、天神曲輪に鎮座することから「お城の天神様」と呼ばれた。歴代川越城主のみならず、庶民の信仰も篤かったが、城内にあることから参拝が難しかった。一応、一般の参拝も許されていたが、参拝者に紛れて密偵が入ることを警戒し、特に帰りには警護の者によって厳しく調べられた。これがわらべ唄「とおりゃんせ」の由来であるということから、「とおりゃんせ発祥の地」とされる。
社伝によれば、創建は大同2年(807)のことと伝えられる。『角川日本地名大辞典』には「大宮の氷川明神を勧請したとも、京都の北野天神を勧請したとも伝えられる」とある。主祭神の素盞嗚尊と奇稲田姫が氷川から、配祀の菅原道真が北野からの勧請ということであろうか。
三芳野の社号は『伊勢物語』に出てくる「入間の郡、三芳野の里」が川越の旧地名であることによるという。以来、三芳野十八郷の惣社として尊崇されたと伝えられる。
『三芳野天神縁起』によれば、太田道潅が川越城を築城した際、城の鎮守として城内に祀るようになった。寛永元年(1624)には徳川家光の命により、川越藩主・酒井忠勝が社殿を再建、翌年、天海僧正を導師として遷宮式が行われた。
さらに明暦2年(1656)徳川家綱の命により川越藩主・松平信綱が社殿を改修、その後も幕命により川越城主が社殿の修造を行っている。
社殿は権現造で、拝殿前方の蛭子社・大黒社とともに埼玉県の文化財に指定されているが、平成元年から4年にかけての解体修理の結果、当初は現在のような姿で建てられたわけではないことがわかった。
境内の川越市教育委員会による説明によれば、もともと本殿と拝殿は独立しており、修造の際に幣殿を増設して現在見るような形になったのだろうという。また、現在の本殿は寛永年間のものではなく、江戸城二の丸東照宮の本殿が移築されたものではないかと推測している。
本殿の後ろには川越城七不思議の一・初雁の杉(現在は三代目)がある。ここには昔から杉の大木があり、北からの初雁がこの杉の上に来ると、決まって三度鳴きながら三度回って南に飛び去ったという。このことから、川越城を別名「初雁城」とも呼ぶ。
例祭 4月24日
神事・行事  
文化財 〈重要美術品〉銅製扇形額 〈県有形文化財〉三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社(附明暦2年の棟札1枚) 三芳野天神縁起(附金梨地漆塗外箱) 拵え付太刀(長吉作・至徳4年) 太刀(銘(表):武州河越住新儀惣兵衛允則重作・銘(裏):奉神納御太刀願主増井初左衛門尉但久寛永十七庚辰暦十二月吉日)
メモ お城の天神様とはいうものの、城跡であることを偲ばせるのは本丸御殿ぐらいなので、往時の情景を思い浮かべることは難しい。「とうりゃんせ」のゆえんとなった参道も、かつてとは違っているとのこと。境内も公園の一部という風情だが、さすがに社殿は立派である。
御朱印は川越氷川神社でいただくことができる。
参道 川越城七不思議とわらべ唄発祥の所の碑
参道 川越城七不思議とわらべ唄発祥の地
蛭子社 大黒社
蛭子社 大黒社
本殿 初雁の杉
本殿 初雁の杉
三芳野神社の御朱印

中央の文字は「通りゃんせ発祥の地 三芳野神社」。中央の朱印は「武蔵国入間郡河越初雁城内三芳野天神社之印」で、周囲は梅の木になっている。左下は「川越氷川神社之印」。

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2009.07.29
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