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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

児玉神社
こだまじんじゃ

児玉神社

児玉神社 (こだまじんじゃ)
御祭神 児玉源太郎〔こだま げんたろう〕
鎮座地 神奈川県藤沢市江の島一丁目4−3 (地図表示:マピオン)
創建年代 大正7年(1918)
社格等 旧県社
由緒 御祭神・児玉源太郎は嘉永5年(1852)長門国都濃郡徳山村(現在の山口県周南市)に生まれた。戊辰戦争に参加した後、陸軍に入る。佐賀の乱、神風連の乱に従軍、西南戦争においては熊本鎮台参謀副長として薩摩軍を迎え撃ち、熊本城を守りきった。その後、陸軍大学校長・台湾総督・内務大臣・文部大臣等の要職を歴任し、軍略のみならず政治にも手腕を発揮した。特に台湾総督としては、後藤新平を民政長官に任命し、多大な業績を上げた。
明治36年(1903)、対露戦計画を立案していた田村怡与造参謀次長が急死した。児玉は敢えて火中の栗を拾う覚悟を固め、降格人事であるにもかかわらず(当時、台湾総督と内務大臣を兼務する副首相の立場であった)、内務大臣の職を辞して参謀本部次長となった。当時のロシアは常備兵力で日本の15倍、国家予算規模で8倍という超大国であった。
日露戦争においては満州軍曹参謀長を兼ね(台湾総督は兼務のまま)、戦略全体の立案、満州での戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、ロシアへの革命工作による後方攪乱などあらゆる場面に関与し、日本の勝利に大きく貢献した。
この日本の存亡を賭けた戦いに全生命を燃やし尽くしたかの如く、日露戦争終結の約8ヵ月後、明治39年(1906)7月23日に帰幽する。
神社境内の掲示によれば、三回忌を期して親友・杉山茂丸が向島の私邸内に社を創建して児玉大将をお祀りしたのが児玉神社創建の端緒と考えられるという。後年、その風光を愛でてたびたび訪れた縁から江ノ島の地に遷された。
大正7年(1918)公認神社への昇格誓願が内務大臣に受理されたことにより、奉賛会長・後藤新平ら大将の遺徳を慕う人々が中心となり、社殿の造営が進められた。同10年(1921)主要社殿が竣工。設計は工学博士の伊東忠太で、近代神社建築の模範と称えられているという。
また、鳥居・燈籠をはじめとして台湾から多くの寄進を受けており、社殿にも阿里山の檜が用いられている。昭和5年(1930)に寄進された拝殿前の狛犬(獅子)も台湾の名工の手による中国風の逸品であり、台湾における業績が偲ばれる。
なお大正11年(1922)生誕地・徳山(周南市)の児玉家旧宅跡にも児玉神社が創建されている。その社殿は江ノ島の児玉神社の旧社殿を移築したものという。
例祭 7月27日
公式サイト http://www.kodamajinja.org/
メモ 江島神社の瑞心門前の石段(エスカーの乗り場)から左に進むと児玉神社の鳥居がある。江島神社へ向かう観光客は多いのだが、児玉神社へ向かう参拝客があまりいない(というか、その存在すらよく知られていない)のは非常に残念なことである。
当社の宮司は、その世界では知る人ぞ知る山本白鳥女史である。私は、お世話になった方が山本宮司と付き合いがあった関係で、何度かお会いしたことがあった。平成16年の年末には、台風で被害を受けた境内の片付けを手伝ったりもしたのだが、当時は御朱印拝受に意識を持ち始めた頃であったにもかかわらず、作業に行くということにのみ意識があったため拝受せず(翌年であれば、必ず朱印帳を持っていってお願いしたに違いない)。結局、それから4年後に拝受した。不在のことが多いのは覚悟していたのだが、幸いいらっしゃったので、無事いただくことができた。
鳥居 謝介石詩碑
鳥居 謝介石詩碑
後藤新平詩碑 石黒忠悳詩碑
後藤新平詩碑 石黒忠悳詩碑
爾霊山高地(二〇三高地)の石 神楽殿
爾霊山高地(二〇三高地)の石 拝殿
中門 本殿
中門 本殿
児玉神社の御朱印

中央の墨書は上に朱で「神威赫々」、下に「児玉神社」。朱印は上下ともに「児玉神社」。

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2011.11.30
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