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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

居多神社
こたじんじゃ

居多神社社殿

居多神社 (こたじんじゃ)
御祭神 大国主命〔おおくにぬしのみこと〕
奴奈川姫命〔ぬなかわひめのみこと〕
建御名方命〔たけみなかたのみこと〕
鎮座地 新潟県上越市五智六丁目1−11 (地図表示:マピオン)
創建年代 不詳
社格等 越後国一宮 式内社 旧県社
由緒 創建については不詳だが、居多は「けた」で、能登・越中の気多神社と同系統の神社だと考えられている。出雲勢力の越後進出の拠点として奉斎されたともいう。元は日本海に面する場所に鎮座していた。
社伝によれば持統天皇の御代、案下の官幣に預かったという。弘仁4年(813)従五位下、貞観3年(861)従四位下を賜る。延喜の制では小社に列する。国府に近いことから越後国一宮として崇敬を受けたという(越後国一宮については弥彦神社とする説もある)。
室町時代には幕府や越後守護上杉氏、守護代長尾氏の崇敬を受け、社領の寄進もたびたびであった。天文2年(1533)長尾為景は内乱鎮定を祈願し、その子である上杉謙信は永禄3年(1560)に制札を掲げている。
しかし謙信没後の天正6年(1578)、御館の乱(上杉景勝と上杉景虎による後継争い)に際して景虎方に味方したため、景勝郡の攻撃を受けることになった。神主の花ヶ前氏は能登・越中に逃れ、上杉氏が会津に移った後に帰国することができた。
江戸時代には幕府より朱印領100石を寄進される。明治5年(1872)郷社に列し、翌6年(1873)県社に昇格。同12年(1879)境内が海岸浸食により崩壊したため、現社地に遷座する。同35年(1902)火災で社殿が焼失し、同40年(1907)仮社殿を造営。長らくそのままであったが、平成20年(2008)新社殿が落成した。
例祭 5月6日(春まつり)
神事・行事 3月6日/尊良親王祭
4月上旬(10日間)/花換祭
4月13日/恒良親王祭
10月19日/絹掛神社例祭
10月19〜20日/御船遊管弦祭(秋まつり)
メモ 参拝は新社殿造営から1年余で、ガランとした広場のような印象の境内に、真新しい大社造りの社殿が建っていた。スッキリとした印象の神社である。
承元元年(1207)越後に流された親鸞聖人は、まず当社に参拝し、念仏弘通を祈願して「すゑ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは」と詠んだ。すると、一夜のうちに居多神社境内の葦が片葉になるという奇瑞が示されたという。片葉の葦は親鸞聖人の越後七不思議の一つに数えられている。境内には親鸞聖人の石像も建っている。
さて、一部の原理主義的な真宗僧侶や門徒の中には、神祇不拝を拡大解釈して神祇否定、神祇を拝礼しないことに価値を置く人たちがいるが、まったく愚かな話である。彼らにかかれば親鸞聖人さえ不合格になってしまうだろう。
まあ、自分たちの信仰に実感が伴っていないため、他宗教を否定的に扱うことによって自分たちの信仰を差別化し、その価値を確認しようするのは真宗に限らず原理主義的信仰者の常である。御朱印を授与しないなどというのも、そういう観点から見ればわかりやすいだろう。
北参道入口の乳母嶽明神は、安寿と厨子王の乳母・宇和竹の霊を祀っており、お乳の出ない人に信仰されているとのことである。
表参道 御祭神像
表参道 御祭神像
雁田神社 乳母嶽明神
雁田神社 乳母嶽明神
親鸞聖人像 片葉の葦
親鸞聖人像 片葉の葦
拝殿 本殿
平成21年拝受の御朱印

中央の朱印・墨書は「居多神社」。右上の印は「越後一の宮」。

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2013.07.21
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