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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

射楯兵主神社
いたてひょうずじんじゃ
(播磨国総社)
はりまのくにそうしゃ

射楯兵主神社拝殿

射楯兵主神社 (いたてひょうずじんじゃ)
御祭神 射楯大神(五十猛命)〔いたてのおおかみ(いたけるのみこと)〕
兵主大神(大己貴命)〔ひょうずのおおかみ(おおくにぬしのみこと)〕
通称・旧称 総社(そうしゃ) 播磨国総社 府中惣社 国衙惣社 総社伊和大明神 軍八頭正一総社伊和大明神
鎮座地 兵庫県姫路市総社本町190 (Mapion/googlemap
創建年代 射楯神:8世紀以前
兵主神:欽明天皇24年(564)
寛平3年(891)合祀
社格等 旧県社 別表神社
由緒 延喜式神名帳に「射楯兵主神社二座」として記載される古社であり、また播磨国の総社でもある。
射楯神については、『播磨国風土記』に飾磨郡〔しかまのこおり〕因達里〔いたてのさと〕の由来として、伊太代神〔いたてのかみ〕(射楯神)がこの地に鎮座するので、その名にちなむという記述があることから、8世紀以前より祀られていたと考えられる。
兵主神は、社伝によれば、欽明天皇25年(564)飾磨郡伊和里水尾山に祀られ、延暦6年(787)坂上田村麻呂により、国衙荘小野江に遷座したとされる。その後、因達里の射楯神を遷し、射楯兵主神社と称するようになったという。
延喜の制では小社に列し、さらに養和元年(1181)播磨国十六郡の神々174座を祀り、播磨国の総社とされた。
鎌倉時代以降、歴代の守護職・領主の尊崇を受けた。また、この頃から府中惣社・国衙惣社、あるいは惣社伊和大明神などと称され、射楯兵主神社の名は表に出なくなったという。
天正9年(1581)羽柴(豊臣)秀吉が姫路城を築くに際し、現社地へ遷座した。以来、歴代姫路城主による崇敬篤く、社殿の造営や宝物の寄進などがしばしばであった。
旧社殿は昭和20年(1945)の空襲で焼失。現在の社殿は同28年(1953)に再建されたものだが、元和9年(1623)の形式を再現したものという。
60年に一度行われる一ツ山大祭は、境内に高さ16mの造り山を置き、その頂上に設けられた山上殿に天神地祇を迎えるものである。天慶2年(939)藤原純友の乱の平定を祈願して行われた天神地祇祭に始まると伝えられる。三ツ山大祭は20年に一度の臨時祭として行われるもので、大永元年(1522)赤松晴政が初めて行ったとされる。この時は三つの置き山が設けられ、神事が執り行われる。
例祭 11月13日〜16日(霜月大祭)
神事・行事 1月14〜16日/初えびす大祭
2月3日/節分祭
2月18・19日/厄神祭
4月/白幣祭
6月1日〜7月31日/人形感謝祭
7月10・11日/総社夏祭
60年に一度(丁卯年)/一ツ山大祭
21年に一度/三ツ山大祭
文化財 〈重文〉太刀(銘:定 附:韋巻柄及び茎断片 〈重要有形民俗文化財〉三ツ山雛形 〈県有形文化財〉石造鳥居 三ツ山祭礼図屏風 〈県無形民俗文化財〉一ツ山大祭 三ツ山大祭
公式サイト http://sohsha.jp/
メモ 地元では総社(「そうしゃ」と濁らずに読む)というほうが通じるようで、姫路在住の知人に「射楯兵主神社」と言うと、ピンとこなかったという経験がある。
参拝時は、総社御門の工事が行われている最中であった。姫路城の中曲輪にあった門の一つ・総社門に由来する。平成18年11月の竣工で、参拝時はちょうど工事中であった。三層構造の楼門で、中には授与所・参拝受付・文化財展示室・展望台・神殿等があるそうだ。
参道と鳥居 神門
参道と鳥居 神門
摂社・恵美酒神社・住吉神社 撫でみみずく
摂社・恵美酒神社・住吉神社 撫でみみずく
西播磨総神殿 東播磨総神殿
西播磨総神殿 東播磨総神殿
十二社合殿 総社御門
十二社合殿 総社御門(参拝時は工事中)
射楯兵主神社の御朱印

墨書は「二神一光」「播磨国総社 射楯兵主神社」。中央の朱印は「播磨之國総社」、右は「兵庫縣姫路市御鎮座」。

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2011.05.11
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