大楠公と称される楠木正成は、延元元年(1336)5月25日、湊川の地において足利尊氏の大軍と戦うが、衆寡敵せず一族及び菊池武吉とともに殉節する。この時、「七生報国」を誓って弟・正季と差し違えたと伝えられる。社殿の北西が殉節の地とされる。
楠木正成の墓所は太閤検地の際にも免租地とされていたが、墓碑などはなかった(首級は足利尊氏の命によって家族に返され、河内長野の観心寺に葬られたと伝えられる)。
江戸時代になり、尼崎藩主・青山幸利はここに梅と松の木を植え、五輪塔を建立した。さらに元禄5年(1692)水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)が墓碑を建てた。享保20年(1735)には楠公四百年祭が、天保6年(1835)には楠公五百年祭が墓前において営まれている。
その後、勤王家や諸藩において、国家として楠木正成を祀る神社を建立すべきという動きが高まり、明治元年(1868)明治天皇より神社創立の御沙汰があった。
同2年(1869)殉節の地と墓所を含む現社地を境内として決定。同5年(1872)5月24日に鎮座祭が執り行われ、初めての別格官幣社に列格した。
御祭神は楠木正成公(大楠公)を主祭神とし、同時に殉節された楠木正季卿をはじめとする一族16柱と菊池武吉卿、及び小楠公と称される楠木正行公を配祀する。菊池武吉卿は九州の菊池氏の第12代当主・菊池武時の七男で、第13代当主・武重の弟。正成一族と共に湊川で自刃した。武時・武重はともに建武中興十五社の一・菊池神社に祀られている。また、小楠公・楠木正行は正成の子息で、湊川の合戦に先立つ桜井の別れで知られる。四条畷の合戦で奮戦の後、弟の正時と共に自刃。四条畷神社に祀られる。大楠公夫人を祀る甘南備神社は本殿に合祀されている。
創建時建立された社殿は第二次大戦の戦災で焼失し、昭和27年(1952)鉄筋コンクリート造で再建された。
祥月命日である5月25日には楠公祭があり、さまざまな奉納行事が行われる。これが当初の例祭であった。その後、新暦に換算し、7月12日が例祭とされている。