社伝によれば、神功皇后が三韓征伐よりの帰途、この地で暴風雨に遭い、進むことができなくなった。そこで自ら綿津見三神を祀ったところ、たちまち風雨が収まった。その地に社殿を建立したのが創祀とされる。
海神社と書いて「わたつみじんじゃ」と読ませるのは本居宣長の説による。古くは「あま」「たるみ」と読んだようである。現在では「かいじんじゃ」と呼ばれることが多い。
古くは明石国造であった海直(後の大和赤石連)の氏神として奉斎されたものであろう。海上交通の要衝に位置することもあり、海上鎮護の神として篤く崇敬された。延喜式では名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に預かる。
江戸時代には明石藩主の崇敬を受け、明治4年(1871)には国幣中社に列格、社名を「海神社」に復す。さらに明治30年(1897)官幣中社に昇格した。
左は昭和5年の御朱印。中央の朱印は「官幣中社海神社」、右上は「播磨 官幣中社」、左下は「播磨國海神社社務所」。因みに現在の垂水区が神戸市に編入されたのは昭和16年で、昭和5年時点では明石郡垂水町であった。
右は昭和10年代のもの。上は波に菊の神紋。下は「官幣中社海神社」で、昭和17年発行の『惟神の礎』にもこの印が掲載されている。昭和5年のものと同じデザインだが文字が少し違う。現在用いられている御朱印は、この印から「官幣中社」を除いたデザインのようだ。
メモ
JR・山陽電鉄の垂水駅からすぐのところにある。松の多い境内が、いかにも海辺の神社らしい雰囲気を醸し出す。鳥居の前を国道2号線(旧山陽道)が走り、その先は垂水港である。明石海峡を望む海上交通の要衝であり、古来、篤く崇敬された意味がよくわかる。〈古今宗教研究所へ〉