中央の墨書は弥勒菩薩の種字「ユ」に弘法大師。弘法大師は弥勒の三昧に住しているということから、弥勒菩薩の種字を使う。中央の朱印は同じく梵字の「ユ」、右上は「御府内八十八所第一番」、左下は「高野山東京別院之章」。
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高野山東京別院 長寿寺 (こうやさんとうきょうべついん ちょうじゅじ) | |
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本尊 | 弘法大師 |
旧称 | 高野山江戸在番所高野寺 |
創建年代 | 高野寺/延宝元年(1673) 長寿寺/推古天皇25年(617) |
開基 | 高野寺/高野山学侶方の江戸在番所として創建された 長寿寺/行基菩薩 |
宗派 | 高野山真言宗 |
所在地 | 東京都港区高輪3丁目15−18 (Mapion/googlemap) |
御詠歌 | 霊山の釈迦の御前に巡り来て よろずの積みも 消え失せにけり |
巡拝 | 江戸三十三観音29番 関東八十八ヶ所特別霊場 |
公式サイト | http://www.musubidaishi.jp/ |
メモ | 御府内八十八ヶ所の一番札所。江戸時代は高野山江戸在番所高野寺と称し、古義真言宗学侶方の触頭(幕府との交渉の窓口)であった。因みに八十八番文殊院は行人方の触頭であった。学侶とは学問や祈祷を専らとする僧侶であり、行人は実務を担当する僧侶である。 慶長年間(1596〜1615)江戸開府にあたり、浅草日輪寺に高野山学侶方の在番所が置かれたことにはじまる。明暦元年(1655)芝二本榎の現在地に寺地を与えられ、延宝元年(1673)堂宇が落成し、正式に高野寺と称するようになった。 明治になると江戸在番所としての役割がなくなったため、葛飾牛島の長寿寺の名跡を移して存続を図った。 長寿寺は推古天皇の勅願により備後国世羅郡に創建されたという古刹。後に行基菩薩によって信濃国に移され、さらに寛文4年(1664)葛飾に移されたと伝えられる。 昭和2年(1927)高野山東京別院と改められ、高野山金剛峯寺の座主が住職をかねることになった。以来、東京における高野山真言宗の拠点として、教化活動を行っている。 現在の本堂は昭和63年(1988)弘法大師の1150年の御遠忌の記念事業として建立されたものである。本堂の前には修行大師像と四国八十八ヶ所のお砂踏みがある。 |
写寺 | 竺和山 霊山寺 |
八十八ヶ所大意 | 高野寺 芝二本榎 〈本尊〉弘法大師 高野山金剛峯寺学侶方在番所 〈朱印地〉二万一千石 ◇触頭・独礼 |
本堂内部 | 修行大師像とお砂踏み |
中央の墨書は弥勒菩薩の種字「ユ」に弘法大師。弘法大師は弥勒の三昧に住しているということから、弥勒菩薩の種字を使う。中央の朱印は同じく梵字の「ユ」、右上は「御府内八十八所第一番」、左下は「高野山東京別院之章」。
2009.04.26
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