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古今御朱印研究室

御府内八十八ヶ所

第32番
萬昌山 圓満寺
ばんしょうざん えんまんじ

円満寺(おむろビル)

万昌山 金剛幢院 円満寺 (ばんしょうざん こんごうどういん えんまんじ)
本尊 不動明王 十一面観音
通称 木食寺
創建年代 宝永7年(1710)
開山 義高上人
宗派 真言宗御室派
所在地 東京都文京区湯島一丁目6−2 (Mapion/googlemap
御詠歌 静かなる我がみなもとの禅師峰寺 浮かぶ心は法の早船
メモ 本郷通り沿い、サッカーミュージアム入口交差点から万世橋方向2つめの「おむろビル」が圓満寺である。
木食義高上人により宝永7年に開創されたことから、「湯島の木食寺」と呼ばれた(木食上人とは穀断ち、すなわち五穀・十穀を断ち、木の実や山菜のみしか口にしないという戒を保つ僧のことである)。
義高上人は覚海と号し、『江戸名所図会』によれば室町幕府の13代将軍・足利義輝の孫・義辰の子という(ただし、一般に義辰は義輝と烏丸氏の遺児といわれる。御府内八十八ヶ所大意には「足利ノ孫」とあり、義高上人自身が義輝の孫という意味だと思われる)。
6代将軍・徳川家宣の帰依を受け、湯島に千坪の土地を拝領して、宝永7年に創建された。鎮護国家を祈願する道場として、幕府より寺社奉行直支配・独礼の待遇を受け、伽藍も整備された。
数度の大火で伽藍が焼失、明治20年(1887)雨降山大山寺(神奈川県伊勢原市)の十摩宥長大僧正が住職を兼帯し、大山不動尊東京出張所として伽藍を復興した(このとき、本尊が不動明王とされたのだろう)。しかし、関東大震災のために再び伽藍焼失、その後再建された伽藍も昭和20年(1945)の東京大空襲で灰燼に帰した。
戦後、同38年(1963)に伽藍を復興。さらに同53年(1978)おむろビルが完成、現在に至る。
参拝時は留守のため、書き置きの納経印をいただいた。
写寺 八葉山 禅師峰寺
八十八ヶ所大意 萬松山 金剛幢院 圓満寺 湯島四丁目
〈本尊〉十一面観音
〈開山〉足利ノ孫 義高上人 ◇独礼
御室末
表札 おむろビル
円満寺の納経印

中央の文字は「本尊不動明王」、脇に「十一面観音」「弘法大師」。中央上の朱印は十一面観音の種字「キャ」、下は不動明王の種字「カーン」、右上は「御府内第三十二番」、左下は「圓満寺 木食寺」。

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2009.10.28
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