古今宗教研究所 >古今御朱印研究室 > 四国八十八ヶ所 > 高野山・東寺他

古今御朱印研究室

四国八十八ヶ所

高野山 奥の院
こうやさん おくのいん

高野山奥の院 御廟橋
御廟橋

高野山 奥の院 (こうやさん おくのいん)
本尊 弘法大師
創建年代 弘仁7年(816)/承和2年(835)
開基 弘法大師
宗派 高野山真言宗 総本山
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山奥之院 (地図表示:マピオン)
御詠歌 ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだおわしますなる
文化財 〈重文〉松平秀康及び同母霊屋 上杉謙信霊屋 佐竹義重霊屋 奥院経蔵 高野山奥之院出土品 〈史跡〉金剛峯寺境内 〈県史跡〉豊臣家墓所 禅尼上智碑 高麗陣敵味方戦死者供養碑 武田信玄・勝頼墓地 〈県天然記念物〉大杉林
メモ 高野山奥の院は弘法大師の御廟である。弘法大師はここで入定、すなわち永遠の禅定に入られ、弥勒仏の下生の時まで永遠の禅定に入っているとされる。四国霊場を巡拝し終えたお遍路さんは、必ず高野山の奥の院に参拝し、弘法大師にご挨拶をする。
弘仁7年(816)弘法大師は嵯峨天皇より高野山を賜り、真言密教の道場とするべく高野山の開創に取りかかった。以後、平安京と高野山を往復しながら真言密教の弘通と済世利人に尽力した。承和2年(835)3月21日奥の院にて入定。
延喜21年(921)醍醐天皇の夢に大師が現れ、「たかの山 むすぶ庵の袖朽ちて 苔の下にぞ有明の月」と歌を詠んだ。驚いた天皇は「弘法大師」の号を宣下し、藤原扶閑と平惟助を勅使として勅書と法衣を賜った。
この時、大師号宣下に尽力した東寺長者の観賢僧正が御廟に入ると、大師は生きているがごとくに端座し、膝まで髪が伸びていたという。僧正は自ら大師の髪を剃り、衣を取り替えた。
観賢僧正の弟子で後に石山寺の中興の祖となる淳祐内供が従者として同行していたが、大師の姿を見ることができなかった。そこで観賢僧正が淳祐の手を取って大師の膝に触らせると、妙なる香りが手に移り、一生消えることがなかった。淳祐内供が書写した経典にもその香りが移ったことから「薫の聖教」と呼ばれる。石山寺に現存し、国宝に指定されている。
鎌倉時代のはじめ、天台座主であった慈鎮和尚(慈円僧正)が高野山に登り、御廟前の燈籠堂で修法三昧に入って大師の姿を拝したという。感激した慈円僧正の詠んだ歌が、高野山奥の院の御詠歌である。
現在では、奥の院に参拝するときは中の橋駐車場から向かうのが一般的であるようだが、本来は一の橋からの参道を進む。両脇には紀州藩主徳川家をはじめとする薩摩の島津、奥州の伊達・南部、長州の毛利などの大名墓、あるいは上杉謙信・武田信玄・石田三成・明智光秀、さらには法然上人や親鸞聖人などの霊屋や供養塔、有名無名の人々の墓碑が並ぶ。企業や団体の墓碑も興味深い。
中世以降の高野聖の活躍により、高野山を兜率の内院あるいは極楽浄土と同一視し、弘法大師のお膝元に納骨する習慣が広まった。宗教宗派を超えた人々が高野山奥の院に納骨をしてきたことから高野山は日本総菩提所と呼ばれるが、歴史好きの者にとっては飽きることのない道のりである。
御廟橋からは聖域として写真撮影は禁止である。正面に燈籠堂、その奥に御廟がある。常に参拝者で賑わう場所であるが、上の写真を撮ったのは1月の朝早くだったので、珍しく人のいない光景を撮影することができた。
一の橋 参道
一の橋 参道
徳川頼宣(初代紀州藩主)墓所 羽州・佐竹家霊屋
徳川頼宣(初代紀州藩主)墓所 羽州・佐竹家霊屋
武田信玄・勝頼墓所 上杉謙信廟
武田信玄・勝頼墓所 上杉謙信廟
弘法大師腰掛石 汗かき地蔵と姿見の井戸
弘法大師腰掛石 汗かき地蔵と姿見の井戸
密厳堂(興教大師御廟) 高麗陣敵味方戦死者供養碑
密厳堂(興教大師御廟) 高麗陣敵味方戦死者供養碑
円光大師(法然上人)御廟 見真大師(親鸞聖人)御廟
円光大師(法然上人)御廟 見真大師(親鸞聖人)御廟
江戸焼死者追悼碑 結城秀康霊屋
江戸焼死者追悼碑 結城秀康霊屋
豊臣家墓所 水向地蔵
豊臣家墓所 水向地蔵
平成元年の納経印 平成18年の納経印

左が平成元年、右が平成18年に拝受したもの。中央の文字は弥勒菩薩の種字「ユ」に「弘法大師」。弘法大師は弥勒の誓願に住していることから、弥勒菩薩の種字を用いる。元年の中央上と18年の中央の朱印も同じく梵字「ユ」、元年の中央下は「高野山奥之院御供所」、左下は平成元年が「高野山奥之院納経所」、18年は「高野山奥之院」。

<<前へ 高野山・東寺他へ 次へ>>


2007.12.30
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.