中央上の朱印は「会津若松 諏方宮」、左下は「諏方神社」。
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諏方神社 (すわじんじゃ) | |
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御祭神 | 建御名方命〔たけみなかたのみこと〕 |
旧称 | 諏訪宮 |
鎮座地 | 福島県会津若松市本町2−50 (マピオン) |
創建年代 | 永仁2年(1294) |
社格等 | 旧県社 |
由緒 | 社伝によれば、永仁元年(1293)黒川城主・葦名盛宗が新宮氏討伐に際し、諏訪大神に戦勝を祈願して勝利を得た。そこで翌2年(1294)信州の諏訪大社より御分霊を勧請し、領内の鎮護としたことに始まるという(黒川城は現在の鶴ヶ城/会津若松城のこと)。以来、歴代領主・藩主の崇敬を受けた。 勧請の際、神輿に随行してきた大祝の諏訪氏、祝の佐久氏・笠原氏が神事に仕えており、永享年間(1429〜42)から会津暦または諏訪暦と呼ばれる地方暦を発行するようになった。 文禄2年(1593)蒲生氏郷が黒川を若松と改め、城を改築し、城下町を整備した際、当社のみが郭内(外濠の内側)に残され、城下の総鎮守とされた。寛文7年(1667)保科正之が藩主の時、領内の各神社を調査し、会津大鎮守六社(諏方、伊佐須美、磐椅、蚕養国、心清水八幡、西村八幡)を定めた際には、その筆頭とされた。 元禄15年(1702)には東山天皇から正一位を授けられた。これを記念し、「授光祭」と称して毎年6月1日から二夜三日の盛大な祭礼を執り行った。特に藩主が在国の年は「本祭」として神輿が郭内・郭外を渡御し、多数の山車等が供奉したという。 しかし明治元年(1868)戊辰戦争のために社殿等灰燼に帰した。翌2年(1869)本殿・幣殿のみが仮社殿として再建されたが、「授光祭」は途絶え、再興されなかった。 平成5年(1993)御大典及び御鎮座700年を記念し、戊辰戦争以前の規範による本殿・幣殿・拝殿の再建が行われた。 |
例祭 | 7月27日 |
神事・行事等 | 1月15日/歳乃神 4月27日/春季例祭 9月27日/秋季例祭 |
メモ | 参拝したのは残暑の厳しい9月の初め。街中にあるのだが、緑の覆い境内という印象が強かった。 御朱印をいただいたとき、宮司さんから諏方神社にわざわざ参拝した理由を聞かれたので、会津大鎮守六社の筆頭ということでぜひ参拝したかったと答えると、よく知っていましたねと驚かれた。たしかに、本来なら会津若松城下の総鎮守として、もっと知られていてよい存在なのだが。戊辰戦争がなければ、また違っていたのかもしれない。 |
一の鳥居 | 二の鳥居 |
会津大鎮守神碑 | 能楽殿 |
境内社 | 本殿 |
中央上の朱印は「会津若松 諏方宮」、左下は「諏方神社」。
2012.09.19
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