中央の墨書は「一之宮貫前神社」。中央の朱印は「貫前神社」、右は「上野国一之宮」。
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下り参道と楼門
一之宮貫前神社 (いちのみや ぬきさきじんじゃ) | |
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御祭神 | 経津主神〔ふつぬしのかみ〕 比売大神〔ひめおおかみ〕 |
旧称 | 貫前神社 抜鉾神社 抜鉾大神 抜鉾大明神 |
鎮座地 | 群馬県富岡市一ノ宮1535 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 伝・安閑天皇元年(531) |
社格等 | 式内社(名神大) 上野国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
由緒 | 社伝によれば、元は現在の安中市鷺宮の咲前神社の地に物部姓磯部氏によって奉斎され、次いで蓬ヶ丘綾女谷の現社地に鎮斎されたことを創祀とする。安閑天皇元年(531)3月15日のこととされる。天武天皇の御代、初めての奉幣があったと伝えられる。 祭神のうち、比売大神は「おそらく綾女庄(一之宮地方の古称)の神で養蚕機織の守護神と考えられます」(由緒書)とのこと。 本来、貫前神社と抜鉾神社は別の神社であり、それぞれ女神と男神を祀っていたが、一社として混同されるようになったという。 『新抄格勅符抄』の大同元年牒に「上野抜鉾神二戸」とあるのが文献上の初出。延喜の制では名神大社に列し、「臨時祭」の名神祭条には「貫前神社一座。或作抜鉾。」とある。また、『上野国神名帳』には「正一位抜鉾太神」とある。 中世以降は上野国一宮として広く崇敬を集めた。本地垂迹説においては、男神の本地が弥勒、女神の本地が観音とされていた。徳川将軍家は神領176石を寄進。 現在の社殿は寛永12年(1635)徳川家光によって造営されたもので、元禄11年(1698)徳川綱吉によって大修理がなされた。本殿は「貫前造」と称し、一見すると春日造りであるが、内部が二階構造になっており、二階部分に神座がある。また、本殿正面の妻の部分にある「雷神小窓」は、元禄年間の改修時に江戸桜田の絵師・梶川政利が雷神の絵を描いたもので、信仰の対象になっているとのこと。 明治4年(1871)国幣中社に列格。社号は、中世以降は抜鉾大明神と呼ばれることが多かったが、明治以降は「貫前神社」を称するようになった。第二次大戦後、社格制度の廃止に伴って一之宮貫前神社と改めた。 |
例祭 | 3月15日 |
神事・行事 | 1月7日/生弓矢生太刀神事 1月12日/鎮火祭 1月15日/筒粥神事 1月20日/郷村安全祭 2月17日/農耕始祭 2月22日/注連縄釣神事 3月4日/御神酒醸り神事 3月7日/御神酒つぎ神事 3月11日/鍬山祭・釜清神事 3月12日/御戸開祭 3月17日/鎮神事 4月15日/流鏑馬祭・酒造奉賽祭 5月5日/供粽神事 6月1日/更衣祭・種子蒔祭 7月7日/御田植神事 11月17日/行幸記念祭 11月22日/注連縄釣神事 12月1日/御神酒醸神事・酒造安全祭 12月5日/御神酒つぎ神事 12月8日/川瀬の行事・鹿占神事 12月11日/神機織神事 12月12日/御戸開神事 12月14日/掃部行事 12月15日/鎮神事 申年の12月12日/仮殿遷座祭 酉年の3月13日/本殿遷座祭 |
文化財 | 〈重文〉本殿(附:棟札二枚) 拝殿(附:棟札) 楼門 白銅月宮鑑 桧垣梅雀文鏡 竹虎文鏡 〈国選択無形民俗文化財〉鹿占習俗 〈県無形民俗文化財〉鹿占習俗 |
公式サイト | http://www.nukisaki.or.jp/ |
メモ | 上信電鉄一ノ宮駅から10分ほど歩くと貫前神社の参道へ出る。急な石段の上に大鳥居があり、その前にある総門をくぐると、有名な下り参道となる。やはり急な石段の麓に朱塗りの楼門を見下ろす。 下まで降ると、森厳たる社叢の中に華麗な朱塗りの社殿が鎮座する。俗世を離れた神域という印象。 参道途中の摂社・月読神社の社殿は、かつての本社拝殿という。また、本社玉垣の中にある摂社・抜鉾若御子神社は『上野国神名帳』にその名が見える。 境内西側の仮殿敷地は、12年に1度行われる式年遷宮祭で仮殿が建てられる。周囲には末社の日枝神社・伊勢内宮・外宮・二十二末社などがある。日枝神社の社殿は、かつての本殿を移築したものという。 また境内東側の宝物殿のあたりは、神仏習合時代の僧堂跡で、三重塔跡などが残っている。 |
総門 | 楼門 |
摂社・月読神社 | 末社・日枝神社 |
拝殿と本殿 | 雷神小窓 |
中央の墨書は「一之宮貫前神社」。中央の朱印は「貫前神社」、右は「上野国一之宮」。
2008.08.31
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