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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

北野天神社
きたのてんじんじゃ
〔物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社〕
もののべてんじんじゃ・くにいちぎじんじゃ・てんまてんじんじゃ

北野天神社拝殿

物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社 (もののべてんじんじゃ・くにいちぎじんじゃ・てんまてんじんじゃ)
御祭神 〈物部天神社〉
櫛玉饒速日命〔くしたまにぎはやひのみこと〕
〈国渭地祇神社〉
八千矛命〔やちほこのみこと〕
〈天満天神社〉
菅原道真〔すがわらのみちざね〕
〈合祀〉
日本武尊〔やまとたけるのみこと〕
天穂日命〔あめのほひのみこと〕
倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕
応神天皇〔おうじんてんのう〕
宗良親王〔むねながしんのう〕
小手指明神〔こてさしみょうじん〕
通称 北野天神社
鎮座地 埼玉県所沢市小手指元町三丁目28−29 (地図表示:マピオン)
創建年代 伝・景行天皇の御代(B.C.13〜A.D.130)
社格等 式内社 旧県社
由緒 物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社の三社を合わせ祀り、総称して北野天神社という。もともと鎮座地の住所は北野であったが、近年、住居表示により小手指元町となった。この北野という地名は当社に因むものである(北野の地名自体は残っているが、地名の由来である神社と切り離されてしまったので、境内に「北野地名由来の碑」が建立されている)。
社伝によれば、日本武尊が東征の際に櫛玉饒速日命と八千矛命を祀り、それぞれ物部天神社・国渭地祇神社と称したことを創祀とするという。境内にある「尊桜〔みことざくら〕」は、日本武尊が植えた山桜の四代目と伝わる。両社ともに延喜式では小社に列している。
長徳元年(995)武蔵の国司の菅原修成(菅原道真の五世の孫)が勅命により、京都の北野天満宮より御分霊を勧請し、「板東第一北野天満宮」と定められたという。
その後、源頼義・義家父子が総社を建立。建久6年(1195)には源頼朝が社殿を造営し、正八幡宮を勧請した。
正平7年(1352)小手指ヶ原の合戦に際しては、征夷大将軍宗良親王〔むねなが/むねよししんのう〕がこの地に陣を敷いたと伝えられ、境内に遺蹟として歌碑が建つ。兵火で焼失した社殿は、延文元年(1356)足利尊氏によって再建された。
天正18年(1590)前田利家が社殿を再興し、武運長久を祈願した。この時奉納した梅の木が、「大納言の梅」として今も境内に残る。
明治5年(1872)郷社に列し、同34年(1901)県社に昇格する。
境内にある諸神堂は源頼朝が社殿を造営した際に建立したもので、延喜式内の諸神を祀る。徳川家光によって諸神宮と改称されたと伝わる。現在の建物は、室町以前の建立ではないかという。
また、境内社の小手指神社は、元は航空神社と称し、航空士官学校に祀られていたものを終戦時に遷座し、殉職した自衛官を合祀して祭祀を行っていた。その後、自衛隊の幹部学校に碑として移されたため、小手指神社と改め、小手指地区の戦没者を祀るようになった。
例祭 3月21日
神事・行事等 4月15日/慰霊祭
7月15日/八雲祭
文化財 〈県有形文化財〉北野天神縁起(附:軸木七本)
メモ 江戸時代の境内は現在よりはるかに広かったというが、今でも結構な広さがある。周囲は宅地化が進みつつあるものの、境内はしっかりと木々の緑に囲まれ、神域の風情を保っている。
境内には上記の尊桜、宗良親王遺蹟、大納言の梅など、さまざまな時代にまつわる遺物・遺蹟が多く、興味深い。由緒にまつわる人物や歴史的事件も多彩で、境内に立ってしばし想像を巡らせた。
初めての参拝時は宮司さんが不在であった。二度目は仕事で近くに行った際、夕方に時間ができたので連絡を入れると、待っていてくださるとのこと。無事、御朱印を拝受することができた。確実に御朱印をいただきたい場合は、事前連絡をしたほうがよいと思われる。
参道入り口 宗良親王遺蹟(歌碑)
参道入り口 宗良親王遺蹟(歌碑)
尊桜 小手指神社(航空神社跡)
尊桜 小手指神社(航空神社跡)
諸神堂(諸神宮) 本殿
諸神堂(諸神宮) 本殿
北野天神社の御朱印

中央の朱印は「板東第一 小手指原 北野天神社」。墨書は「板東第一 北野天満天神社」。

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2008.07.20
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