墨書は「箭弓稲荷神社」。中央の朱印は「箭弓稲荷」、右上は「箭弓参り」、左下は「箭弓稲荷神社社務所印」。
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箭弓稲荷神社 (やきゅういなりじんじゃ) | |
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御祭神 | 保食神〔うけもちのかみ〕 |
通称・旧称 | 箭弓神社 箭弓社 |
鎮座地 | 埼玉県東松山市箭弓町二丁目5−14 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 和銅5年(712) |
社格等 | 旧県社 別表神社 |
由緒 | 社伝によれば、創建は和銅5年(712)で、野久稲荷と称していたという。 長元3年(1030)平忠常の乱の鎮定に向かった源頼信は野久ヶ原に陣を張り、野久稲荷に徹夜の戦勝祈願を行った。その明け方、空に矢(箭)の形をした白雲が現れて飛んでいった(あるいは白狐に乗った神人に弓箭を授かる霊夢を見たともいう)。 頼信は神の加護があることを確信し、自ら先頭に立って敵陣に攻め込み、三日三晩の激戦の末に勝利した。頼信は戦勝の奉賽として社殿を造営し、野久稲荷を箭弓稲荷と改めたという。 以来、松山城主の上田氏や難波田氏など武門の崇敬篤かった。戦国時代の兵乱で社運は衰退したが、元和3年(1617)天海僧正が夢告により社殿を再興、福聚寺を別当とした。歴代川越藩主も当社を尊崇したという。 特に箭弓稲荷に対する信仰が広まったのは享保(1716〜35)の頃で、江戸をはじめ各地に講社ができ、参詣者も多かったという。 また七代目市川團十郎は箭弓稲荷を深く信仰していたという。芸道精進・大願成就を祈願して当社に参籠し、江戸柳盛座の新春興業で「狐忠信」「葛の葉」を演じたところ、連日札止めの大盛況となった。團十郎は、これも箭弓稲荷の加護によるものと感謝し、石の祠を奉納した。これが末社の穴宮(團十郎稲荷)で、今も技術・芸能の向上を祈願する人々の信仰を集めている。 大正11年(1922)県社に昇格、現在は神社本庁の別表神社。「やきゅう」の読みから、プロ野球選手などが参拝することでも知られている。 |
例祭 | 9月21日 |
神事・行事 | 3月初午祭前日/火伏神事 3月初午/初午祭 3月下旬/崇敬者大祭 4月中旬〜5月上旬/牡丹祭 5月/團十郎稲荷祭 10月/團十郎稲荷祭(観月祭) |
文化財 | 〈県有形文化財〉社殿(付:棟札二枚) |
公式サイト | http://www.yakyu-inari.jp/ |
メモ | 東武東上線東松山駅前の大鳥居が、駅前再開発のため撤去されると聞き、その前に見ておこうということで、急遽、箭弓稲荷神社を参拝することに。とはいえ、大鳥居は東松山市観光協会が建てたもので、神社とは直接関係のないものだったそうだ。 県の文化財に指定されている社殿は、随所に見事な彫刻が施された豪壮なもの。本殿は享保3年(1715)、拝殿は天保6年(1835)、間をつなぐ幣殿は文化8年(1811)の建造という。 箭弓=「やきゅう」の読みから野球に掛けて、プロ野球選手などが参拝することは上記の通りだが、もう一つ、バット型の絵馬でも知られる。板状の絵馬も、ホームベースの形になっているようだ。 |
大鳥居 | 手水舎 |
宇迦之御魂社(穴宮・團十郎稲荷) | 神楽殿 |
本殿 | 元宮 |
墨書は「箭弓稲荷神社」。中央の朱印は「箭弓稲荷」、右上は「箭弓参り」、左下は「箭弓稲荷神社社務所印」。
2009.01.25
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