上の朱印は「延喜式内・意富比大神宮・下総船橋」、下は「下総国船橋社務所」。
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意富比神社 (おおひじんじゃ) | |
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御祭神 | 天照坐皇大御神〔あまてらしますすめおおみかみ〕 〈配祀〉 万幡豊秋津姫命〔よろづはたとよあきづひめのみこと〕 天手力雄命〔あめのたぢからおのみこと〕 |
旧称・通称 | 船橋大神宮 |
鎮座地 | 千葉県船橋市宮本五丁目2−1 (地図表示:マピオン) |
創建年代 | 伝・景行天皇40年(110) |
社格等 | 式内社 旧県社 |
由緒 | 正式名称は意富比神社だが、一般には船橋大神宮の名で知られる。最寄り駅も京成本線の大神宮下。 社伝によれば、景行天皇40年(110)、日本武尊が東国平定の成就を祈願するとともに、干ばつに苦しむ住民のために天照大神を祀ったことに始まるという。同53年(123)、景行天皇ご自身が東国に下られ、日本武尊の功績を讃えて意富比神社の号を賜ったという。以来、朝廷・武門等の崇敬篤く、延喜式神名帳にも記載されている。 このあたりは伊勢神宮の神領である夏見御厨(船橋御厨)となり、その中心に神明宮が祀られた。御厨が衰退すると神明宮も衰え、意富比神社に合祀された。その後、神明宮の名が高くなり、意富比神社の名は埋没して、船橋神明、船橋大神宮と呼ばれるようになったという。 天喜年間(1053〜58)には源頼義・義家父子が社殿を修造、仁平年間(1151〜54)には源義朝によって再建された。日蓮聖人は宗旨の興隆発展の断食祈祷を修し、曼荼羅本尊と剣を奉納した。徳川家康は本殿・末社を造営させるとともに社領50石を寄進している。 明治維新の船橋の戦いの戦火により社殿等焼失し、明治6年(1873)以降、順次復興していった。また明治5年(1872)県社に列し、意富比神社の旧称に復した。明治天皇は習志野・三里塚への行幸の度に幣帛料を賜ったという。 |
例祭 | 10月20日(相撲行事がある) |
神事・行事 | 1月3日/新年祈祷祭 4月15日/天之御柱宮例祭 10月19日/外宮例祭 12月一の酉、二の酉/大鳥神社例祭(お酉さま) |
文化財 | 〈県有形民俗文化財〉灯明台 |
メモ | 船橋駅から徒歩10分ほどのところに広大な境内が広がる。社殿や灯明台をはじめ、神楽殿、外宮・天之御柱宮、大鳥神社などの摂末社が建ち並ぶ。 社殿の西側にも金刀比羅社や船玉神社などが並んでいるのだが、平成祭データには載っていない。どういう位置づけになるのであろうか。船玉神社は社殿が船を模した珍しい様式になっている。 |
一の鳥居 | 灯明台 |
外宮 | 大鳥神社 |
神門 | 拝殿 |
上の朱印は「延喜式内・意富比大神宮・下総船橋」、下は「下総国船橋社務所」。
2010.02.17
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