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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

鎌倉宮
かまくらぐう

鎌倉宮 (かまくらぐう)
御祭神 大塔宮護良親王〔だいとうのみや もりながしんのう〕
通称 大塔宮(おおとうのみや)
鎮座地 神奈川県鎌倉市二階堂154 (Mapion/googlemap
創建年代 明治2年(1869)
社格等 官幣中社
由緒 大塔宮護良親王は延慶元年(1308)後醍醐天皇の皇子として生まれる。落飾して尊雲法親王と称し、嘉暦2年(1327)天台座主となる。
元弘元年(1331)後醍醐帝が倒幕の軍を起こすと(元弘の変)、還俗して自ら軍を率い、また全国に令旨を発して勤王の軍を募った。これに呼応して新田義貞、足利尊氏らが倒幕軍に加わり、ついに鎌倉幕府は滅亡した(建武の中興)。
建武元年(1334)護良親王はその功績により征夷大将軍・兵部卿に任じられたが、親王と反目する足利尊氏の讒言により宮中で捕らえらた。足利氏の手に引き渡された親王は鎌倉に移され、尊氏の弟・足利直義の監視のもと東光寺裏の土牢に幽閉された。
翌2年(1335)北条時行が中先代の乱を起こした。北条軍に敗れた直義は、鎌倉を落ちるにあたり、淵辺義博に命じて親王を暗殺させた。この時、親王は28歳であった。
明治2年(1869)維新の大業を成就された明治天皇は、建武の中興における親王の遺徳と悲運を偲び、親王薨去の地に神社を創建するよう勅命を発した。同年7月、鎮座の儀が執り行われた。同6年(1973)には明治天皇の行幸親拝があった。
境内には摂社として、吉野において親王の身代わりとなって戦死した村上義光を祀る村上社、幽閉された親王の身の回りの世話をした南の方を祀る南方社がある。
また、社殿の背後には親王が9ヶ月間閉じ込められていたという土牢、親王の首を刎ねた淵辺義博が、その死相の恐ろしさに首を打ち捨てた場所と伝えられる御構廟(首塚)などがある。
例祭 8月20日
神事・行事 1月7日/若菜神事
1月15日/御粥神事
3月13日/建武中興記念祭
4月16日/明治天皇行幸記念祭
5月5日/草鹿神事
9月27日/吉野神宮遙拝式
10月8〜9日/薪能神事
巡拝等 建武中興十五社
公式サイト http://www.kawagoehikawa.jp/
メモ 初めて当社を参拝したのは、鎌倉宮の宝物殿に護良親王御一代記を奉納された熊澤観明画伯が、阪神淡路大震災義捐のために鎌倉市内の画廊で開かれた色紙の展示即売会に行ったときのことだった。熊沢画伯は横山大観の弟子で、名字を見ればわかるように(本物の)南朝ゆかりの人物とのことである(戦後話題となった熊沢寛道氏らは正系ではないらしい)。
御朱印拝受と上の写真は二度目の参拝時。下の写真は三度目の参拝時。
日本を悪くすれば世界がよくなるかのように錯覚している(自分たちでは物事を考えているつもりのようだが、実は占領政策のドグマやマルクスの迷信で洗脳されて、何も考えていない)連中が最後の悪あがき(といって、そういう連中が反権力を標榜しながら権力を握っているのために状況は一見悪くなっているが)をしている今の時勢を鑑み、綺麗事を標榜して誠実で良心的な人間の精神を蝕む他罰的で吸血鬼のような偽善者が一日も早く駆逐され、明るく希望を持って生きられる日本となるよう、護良親王の冥助を祈願。
大鳥居 摂社・村上社と身代わり様
拝殿 本殿、右に摂社・南方社
土牢 御構廟(御首塚)

中央の朱印は「鎌倉宮印」、右下は獅子頭守。

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2009.01.04
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