中央上の朱印は「報徳」、下は「相模国報徳二宮神社」。
古今宗教研究所 >古今御朱印研究室 > 諸国神社御朱印集 > 神奈川県
報徳二宮神社 (ほうとくにのみやじんじゃ) | |
---|---|
御祭神 | 二宮尊徳〔にのみや そんとく〕 |
鎮座地 | 神奈川県小田原市城内8−10 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 明治27年(1894) |
社格等 | 旧県社 別表神社 |
由緒 | 二宮尊徳は江戸時代後期の農政家。書物を読みながら薪を背負って歩く二宮金次郎の像で知られる。 天明7年(1787)、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)に生まれた。酒匂川の氾濫で田畑が流されて家は没落、両親は過労で亡くなり、兄弟は別々に親戚に預けられた。 尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に預けられ、そこで農作業に従事するかたわら勉学に励んだ。そして荒れ地を開墾し、そこに田植え後捨てられている余った苗を植えて収穫を上げ、貯めたお金で田畑を少しずつ買い戻すと、それを小作に出すなどして収入を増加させ、24歳で実家を再興した。 その後、小田原藩家老・服部家の財政立て直しに成功すると、その能力を見込まれて下野国桜町領(小田原藩主・大久保家の分家である宇津家の領地)の立て直しを依頼され、さらに真岡代官領の経営にも成果を上げる。その手法は報徳仕法と呼ばれ、600ヶ所以上で藩の財政再建や農村の復興などが行われた。 嘉永6年(1853)幕府の命により日光神領での仕法にとりかかる。安政3年(1856)今市(現在の日光市今市)の報徳役所にて没する。 尊徳の指導により設立された報徳社は、その死後も門弟達により各地に拡大していった。明治24年(1891)尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まった。そして同27年(1894)伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模の報徳社の総意により、尊徳の生誕地・小田原の、旧小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建された。 明治42年(1909)本殿・幣殿を新築、拝殿を改築する。社殿の礎石は、天保の飢饉の際、藩主・大久保公の命により、尊徳が領民救済のために開いた小田原城内の米倉の礎石である。この英断により、小田原領内では一人の餓死者も出さなかったという。 |
例祭 | 4月15日 |
神事・行事 | 1月1〜7日/新春有名人慈善絵馬展 1月2日/筆まつり 9月第3日曜日/神徳景仰祭 |
公式サイト | http://www.ninomiya.or.jp/ |
メモ | 小田原城の一角に鎮座する。かつて小学校には、薪を背負い、本を読みながら歩く二宮金次郎の像が必ずといっていいほどあった。二宮尊徳の業績は知らなくても、二宮金次郎を知らない人はいなかっただろうと思われる。 当社の境内にある金次郎像は、昭和3年(1928)昭和天皇の御大典記念に神戸の中村直吉によって寄贈されたもので、三代目慶寺丹長の制作。メートル法普及を意図し、1メートルの高さになっている。当時、同じ像が全国の小学校に向けて1千体制作されたが、戦時中の金属供出のため、この1体のみが現存しているという。 二宮尊徳を祀る神社は当社の他、尊徳の墓所がある今市(現・日光市)の報徳二宮神社、尊徳が仕法を行った桜町(旧・芳賀郡二宮町、現・真岡市)の桜町二宮神社など各地にある。 |
参考 | ★二宮尊徳を主祭神とする神社 ・報徳二宮神社(神奈川県小田原市城内)※当社 ・報徳二宮神社(栃木県日光市今市)※尊徳の墓所がある ・桜町二宮神社(栃木県真岡市物井) ・報徳二宮神社(北海道中川郡豊頃町) ・報徳二宮神社(茨城県水戸市全隈町中山) ・報徳折田神社(群馬県吾妻郡中之条町折田) ・報徳二宮神社(相模原市南区上鶴間) ・二宮神社(相模原市南区南台) ・二宮神社(浜松市東区貴平町) ・若宮神社(徳島県美馬市美馬町) ★二宮尊徳を配祀・合祀する神社 ・人舞神社(北海道上川郡清水町) ・風早大神宮(愛媛県松山市河野別府) |
一の鳥居 | 二の鳥居 |
二宮尊徳翁像 | 金次郎像 |
神池 | 拝殿 |
中央上の朱印は「報徳」、下は「相模国報徳二宮神社」。
2011.11.30
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.