「水無〔みなし〕」の名は「水主〔みぬし〕」の転訛とされる。あるいは当地を流れる宮川が水無神社付近で伏流水となり、「水無河原」と呼ばれることによるともいう。
創建年代は不詳で、神代に遡るともいわれるが、文献上の初見は『三代実録』貞観9年(867)10月5日条の飛騨国従五位下水無神に従五位上を授けるという記事である。以後、貞観10年(868)正五位下、同13年(871)正五位上、同15年(873)従四位下、元慶5年(881)には従四位上に昇叙された。延喜の制では小社に列した。
平安末期には神祇伯の支配下にあり、神主は神祇官より任命されていた。中世には神仏習合が進み、両部神道の霊場となった。社僧を置き、本地堂を建立して釈迦如来像を安置し、「水無大菩薩」と称するようになったという。また飛騨国の一宮として広く崇敬を受けた。
室町時代、社領は18ヶ村3700余石に達した。社家は山下家・一宮家を頭領に12家の祝〔はふり〕があって、後にそれぞれが武士化し、一宮党として隆盛した。
天文から弘治の頃(1532〜58)一宮国綱は松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結んで三木三沢と称し、神職を家臣の森氏に譲り、山下城主として武威を誇った。しかし天正13年(1585)金森長近が飛騨に侵入、三沢は水無神社に立て籠もって激しく抵抗したが滅ぼされ、当社も壊滅的な打撃を被った。
慶長12年(1607)高山藩主となった金森長近が社殿を造営、当社の再興を図った。以後、歴代藩主・代官・郡代の崇敬を受け、また一般庶民の広い信仰に支えられたという。
安永2年(1773)飛騨国一円を巻き込む「大原騒動」が起き、水無神社で大集会が行われた。これに対し、神職の山下和泉と森伊勢が騒動に連座して処罰され、同7年(1778)山下・森両家に替えて信州より梶原伊豆守家熊が招かれた。また、これを機に両部神道から唯一神道に改められた。境内の阿弥陀堂・鐘楼・仁王門を撤去、社殿の改築を進めるとともに、神職の職名が大宮司に改められた。同8年(1779)飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行、これが今に続く「飛騨の大祭」の起源であるという。
明治4年(1871)国幣小社に列格。翌5年(1872)社家が廃され、官選宮司が置かれるようになった。同7年(1874)11月から同10年(1877)12月の約3年間、島崎藤村の父・島崎正樹が宮司として在職している。
第二次大戦末期には、熱田神宮の御神体である草薙剣が疎開のため、水無神社に遷された。
宮川の源流となる位山は水無神社の神体山で、奥宮とされる。古例により、天皇陛下の御即位と伊勢神宮の御遷宮に際しては、位山のイチイの木で作った笏が水無神社より献上される。