元和2年(1616)4月2日、駿府城で病の床にあった徳川家康は本多正純と南光坊天海、金地院崇伝を呼び、自分の死後、遺骸は久能山に埋葬し、葬儀は増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌の後、日光山に小さな堂を建てて勧請し、八州の鎮守となるという遺言を残した。
同月17日、家康が75歳で薨去。2代将軍秀忠は家康の遺命に従い、その日のうちに遺骸を久能山に移した。同年5月、中井正清を棟梁として社殿の造営が始まり、1年7ヶ月をかけて完成した。
翌元和3年(1617)2月、朝廷より「東照大権現」の神号が宣下された。同年3月15日、家康の神柩が日光に向けて出発、4月17日に正遷宮が行われた。一般にはこの時に家康の遺骸が改葬されたと考えられているが、神霊を勧請しただけで遺骸は久能山に残されているとする説もある。
寛永年間(1624〜45)3代将軍家光の命により境内の整備が行われ、楼門、薬師堂(現・日枝神社)、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(神仏分離の際に破却)、薬師堂(現・日枝神社)などが造営され、神廟が小さな祠から現在の石塔に改められた。
正保2年(1645)宮号宣下により東照社から東照宮となった。
明治6年(1873)県社に列格、同21年(1888)別格官幣社に昇格。昭和21年(1946)社名を久能山東照宮に改称した。
平成22年(2010)社殿(本殿・石の間・拝殿)が国宝に指定された。