富士山を神体山として祀る。甲斐国一宮の浅間神社〔あさまじんじゃ〕をはじめ、全国に1,300余あるという浅間神社〔せんげんじんじゃ/あさまじんじゃ〕の総本社である。延喜元年(901)駿河国府の近くに御分霊を勧請した静岡浅間神社を新宮と呼ぶのに対して、本宮と称するようになった。
浅間(せんげん)は本来「アサマ」と読んだ。信州の浅間山に代表されるように「アサマ」と名付けられた火山が各地にあり、また九州の「阿蘇山」などもあるところから、荒々しい火山を意味する言葉ではなかったかという説がある。あるいは伊勢の朝熊山〔あさくまやま〕なども含めて霊威の高い神山を意味したともいう。その抜きんでた存在として、富士山の神に用いられるようになったと考えられる。
浅間大神は木花之佐久夜毘売命(大山祇神の娘で瓊々杵尊の妃神)と同一視されている。木花之佐久夜毘売命は身の潔白を証すため、火中に身を投じて御子を生んだ。このため、火に強い水徳の神と崇められ、噴火する富士山を鎮める願いがあったのではないかとされる。因みに伊豆の三嶋大社に祀られる大山祇神は木花之佐久夜毘売命の父神である。
また、「センゲン」が千手千眼観音〔せんじゅせんげんかんのん〕の名に通じるところから習合が進み、「富士菩薩」「仙元大菩薩」などとも呼ばれた。
社伝によれば、孝霊天皇の御代(B.C.290〜B.C.215)、富士山が噴火して国中が荒廃した。そこで、垂仁天皇3年(B.C.27)山麓に浅間大神を祀り、富士山の山霊を鎮めた。これが創祀であるという。
景行天皇の御代(71〜130)日本武尊〔やまとたけるのみこと〕は東国征伐の途中、浅間大神の神助を得て危難を逃れた。その神恩を感謝して、現在の山宮(本社の北東約6km)において浅間大神を祀った。山宮には今も社殿がなく、磐座〔いわくら〕によって祭祀を行う古代の姿を残している。
現社地に遷座したのは大同元年(806)のこととされる。平城天皇の勅命により、坂上田村麻呂〔さかのうえのたむらまろ〕が社殿を造営した。以来、朝野の篤い尊崇を受けた。延喜式では駿河国唯一の名神大社。永治元年(1141)には正一位に極位した。
武門においても源頼朝は神領を寄進し、富士の巻狩の際には流鏑馬〔やぶさめ〕を奉納している。これが現在も続く流鏑馬祭の始まりという。源実朝が社殿を造営、北条義時・足利尊氏・武田信玄・勝頼親子らが社殿を修造している。
豊臣秀吉は社領787石を、徳川家康は867石を寄進している。また、家康は関ヶ原の戦勝の奉賽として社殿を建立した。現在の本殿・幣殿・拝殿・楼門はこのときのものである。さらに富士山の八合目以上を社地として寄進した(その所有権について国と裁判で争ったが、最高裁の判決により、浅間大社の境内地であることが確認された)。
江戸時代になって富士信仰が広がり、信仰のための登山が盛んになると、浅間大社は表口として栄えた。
明治4年(1871)国幣中社に列し、同29年(1896)官幣大社に昇格した。一方で廃仏毀釈の嵐もすさまじく、浅間大社をはじめ、山麓五つの浅間神社の宮司を兼任した宍戸半〔ししど なかば〕(扶桑教初代管長)が明治7年(1874)地方官を引き連れて富士に登り、貴重な仏具や堂宇をことごとく破却した。それ以前、富士山頂には数多くの仏像が並んでいたというが、その名残はまったく残っていない(現在の奥宮は元は大日堂であり、久須志神社〔くすしじんじゃ〕は薬師堂であった)。
戦後は富士山本宮浅間神社と称し、昭和57年(1982)富士山本宮浅間大社と改めた。