国府宮(こうのみや)の通称で知られる。最寄り駅も名鉄の国府宮駅。
創祀は不詳だが、本殿脇に磐境があることからも、極めて古くより鎮座していたものと考えられる。祭神の尾張大国霊神は尾張の国霊神(国土の神霊)である。後世、大国主命と同一視され、祭神を大国主命としていたが、昭和15年(1940)に国幣小社に昇格した際、本来の尾張大国霊神に改められた。
宝亀2年(771)には従四国衙に隣接し、また国霊神を祀ることから尾張の総社とされ、また国府宮の通称で呼ばれるようになった。別宮の大御霊神社と宗形神社はともに式内社であり、本宮と合わせて国府宮三社と称される。位下を奉授され、仁寿3年には大御霊神社・宗形神社とともに官社に列する(宗形神社については憶感神と記載)。延喜の制では三社ともに小社に列する。建仁元年(1201)には正一位に極位。因みに、文治2年(1186)には大御霊神社が従一位、宗形神社が従二位に進んでいる。
また武門の崇敬も極めて篤く、織田信長は社殿を修理し、豊臣秀吉は社領105石を寄進している。また、尾張藩の初代藩主・徳川義直は社領150石を寄進し、歴代藩主も社殿の造営などを行った。
明治5年(1872)郷社に列格、同9年(1876)県社、さらに昭和15年(1940)国幣小社に昇格した。
社殿は尾張造で、楼門と拝殿が重要文化財に指定されている。楼門は室町時代初期の建立だが、正保3年(1646)の解体大修理の際に上層が改造されているという。拝殿は江戸時代初期の建立である。
旧正月13日に行われる「儺追神事」は「国府宮のはだか祭」として名高い。神護景雲元年(767)称徳天皇の勅命により、全国の国分寺で悪疫退散の祈祷が行われたとき、尾張の国司が当社においても祈願したことに始まると伝えられる。一宮・真清田神社、二宮・大縣神社、三宮・熱田神宮、総社・尾張大国霊神社の神を招き、あらゆる罪・穢れを搗き込んだとされる土餅と人型を儺負人(神男)に背負わせ、境外へ追放して、土餅を土中に埋めることにより、罪穢悪鬼を土に還す。この儺負人(神男)に触れると厄を祓うことができるとされ、集まった男衆が神男に触れようとしてもみ合うのが儺追神事(はだか祭)である。