文字、朱印ともに「那古野神社」。
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那古野神社 (なごやじんじゃ) | |
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御祭神 | 須佐之男神〔すさのおのかみ〕 櫛稲田姫神〔くしいなだひめのかみ〕 〈配祀〉 兵主神〔ひょうずのかみ〕 八柱神〔やはしらのかみ〕 |
旧称 | 三の丸天王社 |
鎮座地 | 名古屋市中区丸の内二丁目3−17 (地図表示:マピオン) |
創建年代 | 延喜11年(911) |
社格等 | 旧県社 |
由緒 | 社伝によれば、醍醐天皇の延喜11年(911)3月16日、勅により那古野庄今市場(現在の三の丸)に牛頭天王を奉斎したことに始まるという。往時は亀尾天王社と称され、別当は真言宗の亀尾山安養寺で、若宮八幡社と隣接していたという。 享禄5年(1532)織田信秀が那古野城の今川氏豊を攻撃した那古野合戦の際、若宮八幡社とともに社殿ことごとく焼失したが、天文8年(1540)信秀によって再建された。文禄4年(1595)豊臣秀吉は社領348石を寄進している。 慶長15年(1610)徳川家康が名古屋城を築城するに当たり、天王社と若宮八幡社の境内は城郭内に取り込まれることになった。そこで城外への遷座を計画し、神慮を伺うため、築城奉行・佐久間政実に神籤を取らせたところ、若宮八幡社は若松町に遷座、天王社は不遷の神籤が再三に及んだ。よって天王社は遷座しないということになり、三の丸天王社とも呼ばれるようになった。なお、元和5年(1619)には隣接して東照宮が創建されている。 以来、城内の総鎮守、城下町の氏神として尊崇され、初代尾張藩主の徳川義直は改めて社領348石を寄進している。祭礼は天王祭と称し、東照宮祭・若宮祭とともに名古屋の三大祭りに数えられた。 明治維新に際し、神仏分離により須佐之男神社と改称、明治5年(1872)郷社に列する。同9年(1876)名古屋鎮台設置のため、東照宮とともに藩校・明倫館跡地の現社地に遷座。同11年(1878)県社に昇格し、同32年(1899)那古野創祀の由緒に基づいて那古野神社と改める。 昭和20年(1945)戦災のために社殿等焼失するが、同29年(1954)本殿・祝詞殿、同32年(1957)拝殿が再建された。 |
例祭 | 7月16日、17日 |
神事・行事 | 1月1日/求火祭 4月16日/東照宮奉祝祭 5月16日/若宮八幡社御輿渡御祭 |
メモ | 名古屋城からほど近く、名古屋東照宮と並び、南面して鎮座する。東が那古野神社、西が東照宮の境内である。参道は両社を横断する形で境内の南側を東西に通っており、東の端には那古野神社の鳥居が、西の端には東照宮の鳥居が建つ。 かつて名古屋三大祭に数えられていた天王祭には、大型の山車である2輌の車楽と、小型の山車である多数の見舞車が曳航されていたが、氏子区域の再編や戦災による焼失等でほとんどが失われ、現在では1輌の車楽が境内に飾られるだけになっている。現在では神輿が神幸の中心となり、若宮八幡社まで巡幸する。また、5月の若宮八幡社の例祭では、若宮祭で唯一残った福禄寿車が那古野神社まで奉曳される。 |
大鳥居 | 金山神社 |
神楽殿 | 境内社 |
福寿稲荷社 | 本殿 |
文字、朱印ともに「那古野神社」。
2011.04.27
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