右の墨書は「湖国総鎮護」、中央は「厄除 長濱八幡宮」、左は「近江国」。中央の朱印は「長濱八幡宮」、右上は「長浜六瓢箪霊場」、右下は「長浜六瓢箪霊場 参拝(年月日) 長濱八幡宮」、左下は「長濱八幡宮社務所」。
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長浜八幡宮 (ながはまはちまんぐう) | |
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御祭神 | 東御前:足仲彦尊〔たらしなかつひこのみこと〕(仲哀天皇) 中御前:誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕(応神天皇) 西御前:息長足姫尊〔おきながたらしひめのみこと〕(神功皇后) |
旧称・通称 | 坂田八幡宮 新放生寺八幡宮 |
鎮座地 | 滋賀県長浜市宮前町13−55 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 延久元年(1069) |
社格等 | 旧県社 別表神社 |
由緒 | 延久元年(1069)後三条天皇の勅願により、源義家が石清水八幡宮より御分霊を勧請・奉斎したと伝えられる。以来、八幡庄11郷の産土神として崇敬を受けた。往古は地名(坂田郡)に因んで坂田八幡宮、また神宮寺である勝軍山新放生寺に因んで新放生寺八幡宮と称された。 中世においては、佐々木氏・京極氏・浅井氏などが深く尊崇し、最盛期には社坊3百余を擁し、さらに天文5年(1536)後奈良天皇より社領3千石を賜って、本宮である石清水八幡宮を凌ぐほどであったという。足利義政は社殿・三重塔を寄進している。しかし、その後の戦乱により荒廃した。 天正2年(1574)長浜城主となった豊臣秀吉により社殿が再興された。長浜曳山祭もこの時に始められたと伝えられる。 明治の神仏分離により、勝軍山新放生寺は子院の舎那院を除いて廃され、本尊の愛染明王・阿弥陀如来等の仏像・宝物も舎那院に移されたという。 |
例祭 | 10月15日 ・10月13日/神輿渡御祭 ・10月15日/神輿還御祭・八幡講社大祭 |
神事・行事等 | 1月11日/新春特別祈願祭 4月13〜15日/春季例祭(長浜引山祭) ・4月13日/神輿渡御祭 ・4月15日/春季例祭(曳山祭)・神輿還御祭 7月上旬/紫陽花祭 8月14〜16日/萬燈祭 12月8日/針供養祭 12月15日/火鑚神事 |
文化財 | 〈重要無形民俗文化財〉長浜曳山祭の曳山行事 〈国選択無形民俗文化財〉長浜曳山狂言 〈県有形文化財〉梅樹双雀文鏡 能装束・紅地扇面散文様唐織能装束1領・縹淡茶段松皮菱牡丹輪宝文様唐織能装束1領 永享七年勧進猿楽奉加帳ならびに永享十一年塔供養奉加帳 版本傍点附刻妙法蓮華経 〈県選択無形民俗文化財〉長浜曳山祭 |
巡拝等 | 神仏霊場137番 |
公式サイト | http://www.biwa.ne.jp/~hatimang/ |
メモ | 参拝はちょうど秋の例祭の神輿渡御祭の日で、拝殿には神輿が据えられ、本殿でお祭りが行われている最中であった。神輿の出御まで御朱印の対応は難しいということで、境内の写真を撮った後、祭礼の様子を見守っていたのだが、本殿でのお祭りが終わり、宮司さんが御神体を捧持して拝殿に向かう後に、法衣を着たお坊さんが続いていた。 威勢よく御旅所へと向かう神輿を見送った後、御朱印をいただき、隣接する旧別当の舎那院を参拝。そちらで御朱印をいただいたときに話を聞いたところ、長浜八幡宮では神仏習合の伝統を重視し、近年では例祭の神輿にも舎那院に祀られている本地仏を同座させているとのこと。宮司さんの後にいたお坊さんは、本地仏を奉じた舎那院の住職さんだったようだ。 江戸時代以前の姿に戻すということは現実的に不可能だとは思うが、こういった形で伝統が回復されているのは素晴らしいことだと思う。 |
一の鳥居 | 神橋と二の鳥居 |
摂社・天満宮 | 摂社・都久夫須麻神社 |
摂社・高良神社 | 神輿と拝殿 |
幣殿 | 本殿 |
右の墨書は「湖国総鎮護」、中央は「厄除 長濱八幡宮」、左は「近江国」。中央の朱印は「長濱八幡宮」、右上は「長浜六瓢箪霊場」、右下は「長浜六瓢箪霊場 参拝(年月日) 長濱八幡宮」、左下は「長濱八幡宮社務所」。
2011.07.27
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