『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあり、古くからこの地に鎮座していた。社伝によれば、伊邪那岐大神は神代に多賀大社東方の杉坂山に降臨し、麓の栗栖の里で休まれた後、多賀に鎮座されたという。
天平神護2年(766)神封6戸が寄進され、延喜式神名帳には「多何神社二座」とある。
莚命〔えんめい〕長寿の神として皇室から武門・庶民に至るまで広く信仰を集めた。その神徳を有名にしたのは東大寺再建の大勧進として知られる俊乗坊重源〔しゅんじょうぼう ちょうげん〕の逸話である。
治承4年(1180)平重衡〔たいらのしげひら〕の南都焼打ちにより東大寺は炎上し、大仏もほとんど焼け落ちた。そこで後白河法皇は勧進聖として高名な重源に東大寺の再建を命じた。
当時、重源はすでに60歳を過ぎていたため、この大事業を成し遂げるための延命を願い、伊勢神宮に参籠した。すると天照大神〔あまてらすおおみかみ〕が夢に現れ、寿命を延ばしたければ多賀神に祈るように告げた。そこで多賀社に参籠して祈ったところ、満願の日に「莚」という字の形に虫が喰った柏の葉が飛んできた。「莚」は「廿+延」と読めることから寿命が20年延びたことを感得し、ついに東大寺再建を成就したという。境内の「寿命石」は、重源上人がその霊験をいただいたゆかりの石という。
明応3年(1494)には別当・不動院(天台宗)が創建された。配下の3院とともに坊人たちが多賀社の御神札を諸国に配布して多賀信仰を広め、「伊勢に七度熊野に三度、お多賀様には月参り」「お伊勢参らばお多賀に参れ、お伊勢お多賀の子でござる」などと謡われるようになったという。
特に豊臣秀吉の崇敬は有名で、生母・大政所〔おおまんどころ〕の病気平癒を祈願し、社領1万石を寄進するとともに社殿を造営した。
寛永5年(1628)徳川秀忠は朱印領350石を、慶安4年(1651)には彦根藩が黒印領150石を寄進している。江戸時代を通じて火災や暴風などで社殿の炎上・倒壊たびたびであったが、その度に幕府や彦根藩によって再建されている。
明治4年(1871)県社兼郷社に列し、同18年(1885)官幣中社、大正3年(1914)官幣大社に昇格する。現在の社殿は昭和7年(1932)に竣工したものである。戦後、社号を多賀大社と改める。