建武中興十五社の一。南朝方の公卿・名将として名高い北畠顕家と、その父で南朝の重鎮であった北畠親房を祀る。
元弘3年(1333)北畠顕家は若干16歳で陸奥守、翌建武元年(1334)には鎮守府将軍に任ぜられ、奥州の経営に当たった。同年、足利尊氏が反旗を翻すと、奥州の兵を率いて上京し、楠木正成や新田義貞などとともに足利勢を京から追い落とした。
建武5年(1338)には再び兵を率いて奥州を発ち、鎌倉を攻略した後、美濃国の青野原の戦いで勝利をおさめた。その後、長途の行軍で疲弊していたため、京都への進軍を諦め、伊勢から大和へと向かった。しかし大和国般若坂の合戦で足利方に敗れ、摂津国で再起を図るものの、阿倍野の合戦に敗れ、石津の合戦で高師直〔こうのもろなお〕の軍勢との激戦の末、戦死した。享年21歳。
明治15年(1882)阿部野神社として創立。同23年(1990)鎮座祭が執り行われ、別格官幣社に列する。昭和20年(1945)戦災のため、焼失。現在の社殿は同43年(1968)に再建されたものである。
因みに親房・顕家父子は福島県の霊山神社でも主祭神とされ、三重県の北畠神社では相殿に祀られている。
拝殿の西側にある摂社・勲之宮〔いさおしのみや〕には南部師行〔なんぶもろゆき〕と一族郎党108名の御霊を祀る。師行は北畠顕家に従って奥州に下向し、根城(八戸)を拠点として活躍した。石津の合戦にも従軍し、顕家戦死の報を聞くと、僅かに残った一族郎党108名を率いて敵陣に突入、壮絶な戦死を遂げた。