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諸国神社御朱印集

阿部野神社
あべのじんじゃ

阿部野神社拝殿

阿部野神社 (あべのじんじゃ)
御祭神 北畠親房公 北畠顕家公
鎮座地 大阪市阿倍野区北畠3-7-20 (Mapion/googlemap
社格等 旧別格官幣社 別表神社
公式サイト http://www.abenojinjya.com/

阿部野神社の由緒

建武中興十五社の一。南朝方の公卿・名将として名高い北畠顕家と、その父で南朝の重鎮であった北畠親房を祀る。

元弘3年(1333)北畠顕家は若干16歳で陸奥守、翌建武元年(1334)には鎮守府将軍に任ぜられ、奥州の経営に当たった。同年、足利尊氏が反旗を翻すと、奥州の兵を率いて上京し、楠木正成や新田義貞などとともに足利勢を京から追い落とした。

建武5年(1338)には再び兵を率いて奥州を発ち、鎌倉を攻略した後、美濃国の青野原の戦いで勝利をおさめた。その後、長途の行軍で疲弊していたため、京都への進軍を諦め、伊勢から大和へと向かった。しかし大和国般若坂の合戦で足利方に敗れ、摂津国で再起を図るものの、阿倍野の合戦に敗れ、石津の合戦で高師直〔こうのもろなお〕の軍勢との激戦の末、戦死した。享年21歳。

明治15年(1882)阿部野神社として創立。同23年(1990)鎮座祭が執り行われ、別格官幣社に列する。昭和20年(1945)戦災のため、焼失。現在の社殿は同43年(1968)に再建されたものである。

因みに親房・顕家父子は福島県の霊山神社でも主祭神とされ、三重県の北畠神社では相殿に祀られている。

拝殿の西側にある摂社・勲之宮〔いさおしのみや〕には南部師行〔なんぶもろゆき〕と一族郎党108名の御霊を祀る。師行は北畠顕家に従って奥州に下向し、根城(八戸)を拠点として活躍した。石津の合戦にも従軍し、顕家戦死の報を聞くと、僅かに残った一族郎党108名を率いて敵陣に突入、壮絶な戦死を遂げた。

阿部野神社の御朱印

阿部野神社の御朱印

上の朱印は笹竜胆の神紋、下は「阿部野神社」。

阿部野神社の昔の御朱印

昭和戦前の御朱印

 時期不詳 時期不詳  昭和10年代 

左と中央は時期不詳。左は「別格官幣社」「阿部野神社印」。中央は「別格官幣社阿部野神社」、その上に勾玉に「神壽」。
右は昭和10年代のもので、「別格官幣社阿部野神社」。昭和17年発行の『惟神の礎』にもこの印が掲載されている。

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阿部野神社の概要

名称 阿部野神社
御祭神 北畠親房公 北畠顕家公
鎮座地 大阪市阿倍野区北畠三丁目7−20
創建年代 明治15年(1882)
社格等 別格官幣社 別表神社
例祭 1月24日
神事・行事 3月中旬/春季祖霊大祭
4月初旬/桜祭り
5月中旬/浪速津南阿部野薪能
5月22日/春季大祭
7月21〜22日/夏祭り
9月中旬/秋季祖霊大祭
10月18日/秋季大祭
巡拝等 建武中興十五社 神仏霊場44番
一の鳥居 北畠顕家公像
一の鳥居 北畠顕家公像
二の鳥居 旗上稲荷社
二の鳥居 旗上稲荷社
祖霊社と勲之宮 御魂振之宮
祖霊社と勲之宮 御魂振之宮

◆メモ
北畠顕家という人物は、楠木正成や新田義貞、あるいは彼自身の父である北畠親房ほどには有名ではないが、極めて魅力あふれる人物である。
住吉大社から生根神社を経て阿部野神社へと徒歩での参拝。帝塚山駅の前をまっすぐ北上すると、一の鳥居が見えてくる。参道は社殿へ一直線に続いているのだが、二の鳥居の手前の参道中央に灯籠と木があり、拝殿前には百度石がある。
拝殿の脇から裏に回る道がある。本殿の裏にある奥宮・御魂振之宮には天照大神・三輪大神・少彦名大神・菅原道真公を祀られている。
戦後、仮社殿の建立と同時に祀られたもので、歴代宮司・氏子崇敬者が社殿復興の祈願を続けたという。その不思議な霊験により、さまざまな困難を乗り越えて社殿の復興を成し遂げることができたことから、「一願一遂の宮」として、不退転の精神で強く念じれば、自分自身が本来持っている魂を奮い起こし、願いの達成に力強い息吹を与えるとのことである。

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2009.02.15
更新:2015.11.14
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