御祭神は宮中で坐摩巫〔いかすりのみかんなぎ〕が祀っていた坐摩神〔いかすりのかみ〕五柱。神功皇后が三韓征伐より帰還されたとき、淀川南岸の渡辺の地(現在の中央区石町、坐摩神社の御旅所)に坐摩神を祀ったのが創祀とされる。延喜式では大社に列し、月次・相嘗・新嘗の官幣に預かる。
『和漢三才図会』などによれば、中世には神功皇后を御祭神としていた時期もあるようだ。また、住吉大社の末社であった時期があることを窺わせる史料もある。
天正10年(1582)豊臣秀吉の大阪城築城にあたって替え地を命じられ、現社地に遷座した。「渡辺」の地名は、旧社地の地名が移されたものである。当時は社前に多くの物売りや見せ物が集まり賑わった。特に古着屋が多く、「坐摩の古手屋〔ふるてや〕」と呼ばれた。後に船場が繊維の街として発展する要因の一つとされる。
明治天皇の御誕生に際しては宮中から御祈願があり、明治元年(1868)には明治天皇が御親拝された。〈詳しく〉
左は平成16年、中央は平成24年に拝受した御朱印。中央の墨書・朱印はともに「坐摩神社」、右上には鷺丸の神紋、平成24年拝受のものは右下に「摂津国」の印。
右は陶器神社の御朱印。
上段左から順に大正10年代、昭和3年頃、昭和10年、昭和10年代のもの。坐摩神社の御朱印はたびたび変わっているようだ。
大正10年代のものは上に鷺丸の神紋、下に「坐摩神社」。昭和3年頃のものは上に「参拝記念」、下に「坐摩神社」。昭和10年のものは上に鷺丸の神紋、下に「坐摩宮印」。昭和10年代のものは上に「官幣中社」、下に「坐摩神社」で、昭和17年発行の『惟神の礎』にはこの印が掲載されている。
巨大な南御堂(真宗大谷派・難波別院)の西側に鎮座する。大阪のど真ん中だが、大通りに面していないためか、静かで落ち着いた印象がある。境内には大阪府神社庁もある。
本殿脇、境内東側の通りに面して建つ陶器神社は、かつて西横堀川に多かった陶器問屋の鎮守。元は靱南通にあったが、市内電車敷設のため、坐摩神社境内に遷座したという。火伏せの神として信仰を集める(大阪府陶磁器商業協同組合のサイトを参照)。陶器神社も御朱印をいただくことができる。