御祭神の生島神・足島神は大八洲〔おおやしま〕の神霊すなわち日本の国土の国魂神で、八十島神と称される。宮中においても生島巫〔いくしまのみかんなぎ〕によって祀られ、天皇即位に際しては難波津で八十嶋祭が執り行われた。
社伝によれば、神武天皇御東征の砌、国土の平定と安泰を願い、生島大神・足島大神を鎮斎したことに始まるという。当初の鎮座地は難波之碕(石山碕)すなわち現在の大阪城の辺りであった。
文献上における初見は『日本書紀』の孝徳天皇即位前記で、天皇が仏法を尊んで神道を軽んじた例として、生國魂社の木を切ったことが上げられている。大化元年(645)孝徳天皇は難波宮に遷っていることから、宮殿の造営のために生國魂神社の神木を用いたのではないかとされる。
貞観元年(859)従四位下に叙される。同年9月、住吉大社・大依羅神社などとともに風雨の祈願があったが、ここでは「難波大社〔なにわのおおやしろ〕」と記されている。難波大社の名は、延喜式臨時祭祈雨神祭条にも見える。延喜式で「大社」とあるのは出雲の杵築大社(出雲大社)・近江の小槻大社と当社のみとされる。延喜式神名帳には難波坐生國咲國魂神社〔なにわにいますいくくにさくくにたまのかみのやしろ〕二座とあり、祈年・月次・相嘗・新嘗の奉幣に預かった。
明応5年(1496)本願寺第8世の蓮如が当地に石山本願寺を創建した。その後、本願寺と織田信長の間で10年にわたって続けられた石山合戦のために、隣接していた生國魂神社も焼失してしまった。天正11年(1583)豊臣秀吉は石山本願寺の跡に大坂城の築城を始めるが、その際、当社の境内が城内に入るため、社領を寄進して現社地に遷座した。
慶長6年(1601)豊臣秀頼は社領300石を寄進し、同11年(1606)片桐且元に社殿を造営させた。さらに元和2年(1616)大坂夏の陣のために焼失したが、徳川秀忠によって再建され、豊臣氏の先例にならって朱印領300石を寄進した。明治4年(1871)官幣大社に列格。
当社の本殿は「生国魂造」と称し、本殿・幣殿を一つの流造の屋根で葺きおろし、その正面に千鳥破風、すがり唐破風、さらに千鳥破風を重ねるという豪壮華麗な造りである。昭和20年(1945)米軍の空襲によって焼失し、同24年(1949)再建されるが翌25年(1950)のジェーン台風のために倒壊。現在の本殿は同31年(1956)鉄筋コンクリートで再建されたものである。