左は平成16年、右は平成23年に拝受の御朱印。中央の朱印は「高津宮」、右上は「浪速高津宮」。
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高津宮 (こうづぐう) | |
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御祭神 | 仁徳天皇〔にんとくてんのう〕 〈配祀〉 仲哀天皇〔ちゅうあいてんのう〕 応神天皇〔おうじんてんのう〕 神功皇后〔じんぐうこうごう〕 葦姫皇后〔あしひめこうごう〕 履中天皇〔りちゅうてんのう〕 |
通称・旧称 | 高津神社 |
鎮座地 | 大阪市中央区高津一丁目1−29 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 貞観8年(866) |
社格等 | 旧府社 別表神社 |
由緒 | 御祭神は仁徳天皇で、左座に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇、右座に葦姫皇后と履中天皇を配祀する。仁徳天皇は難波高津宮を都としたが、殊に民のかまどの故事で名高い。 天皇が高殿より国中を見ると、民家の竈から立つ煙がなかった。民が貧しいことを悟った天皇は、3年間租税と課役を停止した。そのため宮垣は崩れ、屋根には穴が空いて風雨が吹き込み、夜は星が見えるほどであったという。3年後、再び高殿から見渡すと、あちこちの民家から煙が立ち上っていた。天皇はさらに3年間課税課役の停止を延長した後、ようやく税と役を課し、宮殿の造営を行った。人々は老いも若きも労を惜しまず、進んで参加したと記されている。 社伝によれば、貞観8年(866)清和天皇が仁徳天皇の御仁政を慕い、勅命によって難波高津宮の跡を求めて社地を定め、仁徳天皇をお祀りしたことに始まるとされる。以後、皇室や時の幕府などによって社殿の造営寄進が行われたという。 天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城を築くに際し、比売古曽社の境内に遷座した。現在、比売古曽社は地主神として、摂社とされている。延喜式内名神大社・比売許曽神社の論社である(もう一社は東成区東小橋の比売許曽神社)。 明治5年(1872)府社に列格。昭和20年(1945)戦災のため、神輿庫を残して社殿等全焼、同36年(1961)再建。 |
例祭 | 7月18日(夏祭) ※7月17日宵宮 |
神事・行事 | 1月15日/トンド・白菊祭 2月11日/献梅祭 2月23日/皇太子浩宮徳仁親王誕生祭併的祭 3月春分の日/祖霊祭 4月上旬/高津宮桜まつり 4月初午の日/高倉社初午大祭 6月11日/比売古曽祭 6月15日/白菊祭 9月秋分の日/祖霊祭 10月18日/秋祭併敬老祭 11月1日/高倉社御火焚祭 11月11日/比売古曽祭 |
公式サイト | http://www.kouzu.or.jp/ |
メモ | 千日前通り北側の高台に鎮座する。今でこそ背の高い建物が増えたが、かつては絵馬堂のあたりが展望の名所として知られ、望遠鏡を貸して大坂の町並みを説明する遠眼鏡屋が人気であったという。茶店やくろやきなどが並び、大坂の町人文化の中心として賑わっていた。 古典落語の「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台となっていることでも知られる。現在、参集殿が「高津の富亭」と名付けられ、落語の寄席などが行われているようだ。因みに、「高津の富」は東京に移されて「宿屋の富」となった。こちらでは湯島天神や椙森稲荷が舞台となる。また「崇徳院」も東京に移されているが、上野の清水観音堂を舞台にすることが多いという。 境内には王仁博士ゆかりの献梅碑、仁徳天皇の事績を記した「高台之頌碑」(明和9年(1772)建立)、縁切り坂とも呼ばれる西坂、陰陽石などがあり、なかなか興味深い。 |
鳥居 | 献梅碑と梅ノ井 |
末社 高倉稲荷神社 | 末社 安井稲荷神社 |
神輿庫 | 陰陽石 |
摂社 比売古曽神社 | 本殿 |
左は平成16年、右は平成23年に拝受の御朱印。中央の朱印は「高津宮」、右上は「浪速高津宮」。
2012.06.20
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