後鳥羽上皇が造営された水無瀬離宮の跡に鎮座している。上皇はこの地を非常に愛され、たびたび滞在された。多芸多才で、自ら『新古今和歌集』の撰に関わるなど学芸に優れていたのみならず、武芸にも秀でていた上皇は、水無瀬において管弦の催しや歌会、蹴鞠、狩り、刀の鍛錬などをなどを行ったという。
承久3年(1221)後鳥羽上皇は倒幕の軍を起こしたが破れ、隠岐に流された。第三皇子で挙兵に参画した順徳上皇は佐渡へ配流、第一皇子の土御門上皇は挙兵に関与していなかったが自ら望んで土佐に流され(その後阿波へ遷される)、それぞれ都に戻ることなく配流の地で崩御された。
延応元年(1239)後鳥羽上皇は崩御の14日前に自らの御手印を押した御置文を水無瀬信成・親成父子に下し、後生を弔うように遺言した。そこで崩御の後、離宮の跡に御影堂を建立し、上皇が隠岐に出発する直前、藤原信実に描かせたという御影を祀って菩提を弔ったのが起源とされる。当初は法華堂と称していたが、室町時代中期、後土御門天皇より「水無瀬宮」の号を賜った。以来、水無瀬御影堂として朝廷・武門の尊崇を受けた。
江戸時代までは仏式での法要が営まれていたが、明治6年(1871)神式に改められて神社となり、隠岐より後鳥羽天皇の御霊を遷し、水無瀬宮と称して官幣中社に列した。また、この時、土御門天皇と順徳天皇の御霊も合わせ祀られた。さらに後鳥羽天皇の七百年式年に当たる昭和14年(1939)官幣大社に昇格し、神宮号を賜った。
本殿は明正天皇の御代に京都御所の旧内侍所を下賜されたもの。拝殿は昭和4年(1929)の改築。拝殿に向かって右側にある客殿は福島正則が造営し、豊臣秀吉が献納したものと伝えられ、国の重要文化財に指定されている。同じく重要文化財の燈心亭は後水尾上皇御遺愛の茶室。神門は府の重要文化財で、門柱には石川五右衛門の手形とされるものが遺っている。
また手水舎の井戸は大阪府で唯一名水百選に選ばれた「離宮の水」である。御影堂の神饌に用いられた井戸だが、古くから書道や茶道として使われてきた。現在も休日には多くの人が水を汲みに訪れるという。
参考
御祭神の三上皇には、配流先にもそれぞれをお祀りする県社クラスの神社がある。すなわち後鳥羽天皇を祀る隠岐神社(島根県隠岐郡海士町)、土御門天皇を祀る阿波神社(徳島県鳴門市)、順徳天皇を祀る真野宮(新潟県佐渡市)である。