四条畷の合戦で戦死した楠木正行及び一族を祀る。旧別格官幣社で建武中興十五社の一。楠木正行は楠木正成の嫡子で、正成を大楠公〔だいなんこう〕と讃えるのに対して、小楠公〔しょうなんこう〕と称される。
正成は湊川の合戦に向かうに当たり、桜井駅(現在の三島郡島本町)において正行を呼び寄せ、「この度の合戦で味方が勝つことは難しい。自分の死後、天下は足利氏の思うままになるであろうが、お前はどこまでも忠義を全うしてもらいたい。それが何よりの孝行である」と諭して河内へ帰らせた。これが名高い「桜井の別れ」である。
その後、正行は父の遺訓に従い、各地で足利方の軍勢と戦った。瓜生野〔うりうの〕の合戦では山名時氏〔やまなときうじ〕・細川顕氏〔ほそかわあきうじ〕の連合軍を打ち破ったが、敗走して渡辺橋に殺到し、橋から落ちて溺れる敵兵たちを救い上げたうえ、手当をし、衣服を与えて京へ送り返したという。
しかし、正平3年(1348)正月5日、3千の兵を率いて高師直〔こうのもろなお〕・師泰〔もろやす〕率いる8万の大軍と四条畷で戦い、激戦の末、敗北。弟・正時と差し違えて自害した。
これに先立ち、戦死を覚悟した正行は吉野の後村上天皇のもとに参内した。この時、後村上天皇は「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」と仰せられた。しかし、正行の決死の決意は固く、後醍醐天皇の御陵を拝した後、如意輪堂の壁板に一族143名の名前を書き記し、最後に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」との辞世の歌を残した。
正行の遺骸は、現・四條畷市雁屋南町(四条畷神社から参道を下って西に約1km)の小楠公墓所に埋葬され、小さな碑を建てて、その両脇に2本の楠が植えられた。その楠は碑を包み込んで一株のようになり、現在では大阪府の天然記念物に指定されている。
明治に至り、地元・住吉平田神社の神主である三牧文吾らが小楠公を祀る神社の創建を請願。明治22年(1889)勅許により神社の創立と四条畷神社の社号が宣下された。別格官幣社に列し、翌23年(1890)4月5日、鎮座祭を斎行した。
因みに父の楠木正成を祀る湊川神社は明治5年(1872)に創建され、初めての別格官幣社とされている。
本殿脇の摂社・御妣神社〔みおやじんじゃ〕には正行の母(小楠公御母堂・大楠公夫人)を祀る。湊川の合戦の後、足利尊氏から送られてきた父の首を見て、悲しみのあまり自害しようとした正行に、「父の遺訓を忘れたか」と諭し、正行たち兄弟を忠義の士として育て上げた賢母として讃えられる。