中央の墨書は「金刀比羅宮」。中央の朱印は「金刀比羅宮印」、右上は「琴平山」。
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拝 殿
金刀比羅宮 (ことひらぐう) | |
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御祭神 | 大物主神〔おおものぬしのかみ〕 〈相殿〉 崇徳天皇〔すとくてんのう〕 |
旧称 | 象頭山松尾寺 金毘羅大権現 琴平神社 |
創建年代 | 不詳(伝・約三千年前) |
所在地 | 香川県仲多度郡琴平町892−1 (地図表示:マピオン) |
御詠歌 | − |
メモ | 金毘羅大権現はガンジス川の鰐神クンビーラ(十二神将の一・宮毘羅大将)とされ、象頭山松尾寺の伽藍鎮守神として祀られた。塩飽諸島の船乗りたちが厚く尊崇したことから、全国に信仰が広まり、朝廷・武家から一般庶民まで広く信仰を集めることになった。森の石松の金比羅代参や十返舎一九の続膝栗毛で知られるように、各地から数多くの参詣客が集まった。 しかし、明治の神仏分離によって大物主神を祀る神社となり、松尾寺は廃寺とされた。後に塔頭の普門院が松尾寺の名跡を継ぎ、現在に至る。 とはいえ、金毘羅大権現と大物主神を同一視する説は、江戸時代初期にはすでに見える。寂本の『四国徧礼霊場記』には、大物主神が天竺に渡り、その地で金比羅と呼ばれたという説を紹介している。つまり、神仏分離以後に大物主神を御祭神としたのは、松尾寺の縁起伝承によったものであり、まったく新しく創作されたものではない。 金刀比羅宮の御祭神が大物主であることをまったく根拠がないなどといって批判する向きもあるが、無知に基づく不当な批判といわざるを得ない。そういう無知に基づく不当な批判ができる感性こそ、過激な廃仏を実行した人々と根を同じくしているように思う。 松尾寺自体の歴史もよくわかっておらず、確認できるのは戦国時代以降である。そのため、日本有数の霊場として知られるにもかかわらず、四国霊場には数えられない。しかし、江戸時代初期には朝野の尊崇を集めるに至り、『四国徧礼霊場記』には「金毘羅は順礼の数にあらずといえども当州の壮観名望の霊区なれば、徧礼の人、当山に往詣せずということなし」とある。〈諸国神社御朱印集へ〉 |
随神門 | 表書院(旧松尾寺本坊金光院) |
旭社(旧松尾寺本堂) | 絵馬堂 |
中央の墨書は「金刀比羅宮」。中央の朱印は「金刀比羅宮印」、右上は「琴平山」。
2009.03.01
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