古今宗教研究所 > 古今御朱印研究室 > 四国八十八ヶ所 > 高野山・東寺他

御朱印の部屋

四国八十八ヶ所

高野山 金剛峯寺
こうやさん こんごうぶじ

高野山金剛峯寺 参道と山門
参道と山門

高野山 金剛峯寺 (こうやさん こんごうぶじ)
本尊 弘法大師
創建年代 弘仁7年(816)/文禄2年(1592)
開基 弘法大師/木食応其
宗派 高野山真言宗 総本山
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山132 (地図表示:マピオン)
御詠歌 ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだおわしますなる
文化財 〈国宝〉絹本著色仏涅槃図 絹本著色善女龍王像 木造八大童子立像 木造諸尊仏龕 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃 宝簡集54巻・続宝簡集77巻6冊・又続宝簡集167巻9冊 法華経巻第六 聾瞽指帰2巻 金銀字一切経4296巻 〈重文〉絹本著色両界曼荼羅図(血曼荼羅)2幅 絹本著色丹生明神像・狩場明神像 絹本著色大日如来像 絹本著色愛染明王像 絹本著色山水屏風 絹本著色両頭愛染曼荼羅図 絹本著色如来像 絹本著色弘法大師・丹生高野明神像 木造孔雀明王像 木造大日如来坐像 木造大日如来坐像及両脇侍阿弥陀如来釈迦如来坐像 木造阿弥陀如来坐像 木造浮彫九尊像 胎蔵界板彫曼荼羅 木造不動明王坐像 木造天弓愛染明王坐像 木造四天王立像4躯 木造四天王立像4躯 板彫両界曼荼羅2面 飛行三鈷杵 金銅仏具8箇 成身会八葉蒔絵厨子 厨子入金銅水神像 短刀〔銘:国光〕 剣〔銘:真守〕 脇指〔銘:長谷部国重〕 銅鐘 銅鐘 蒔絵螺鈿筥 銅仏餉鉢 紙胎花蝶蒔絵念珠箱 華形大壇・箱形礼盤 華形大壇 舞楽装束類 即身成仏品 紙本墨書町石建立供養願文 雑阿含経巻第三十九 増壱阿含経巻第三十二 紺紙金泥般若心経 紙本墨書聖観音造立願文 紺紙金字一切経3575巻 紺紙金字法華一品経28巻 金剛峯寺根本縁起 高麗版一切経6285帖 宋版一切経3750帖 細字金光明最勝王経2巻 南保又二郎納骨遺品 高野山版木5488枚 木造不動明王立像・木造毘沙門天立像・木造毘沙門天立像(毘沙門天立像々内納入) 〈史跡〉金剛峯寺境内 〈県有形文化財〉大主殿・奥書院・経蔵・鐘楼・真然堂・山門・会下門・かご塀 紙本墨画山水図 赤銅菊花牡丹文透彫箱 白銅手錫杖 木造金剛力士立像2躯
巡拝等 神仏霊場13番
メモ もともと金剛峯寺とは大伽藍を中心とする高野山一山の寺号で、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典に因んで名付けたという。現在の金剛峯寺は江戸時代まで青厳寺と称していた。
かつて、現在の金剛峯寺の場所には真然大徳の住房があったという。天承元年(1131)には興教大師覚鑁が小伝法院を建立している。
文禄2年(1593)豊臣秀吉は母・大政所の菩提を弔うため、木食応其に命じて寺を建立した。大政所の遺髪を納めたことから剃髪寺と名付けられたが、後に青厳寺と改められた。豊臣秀次が自害した場所としても知られる。祝融の災に遭うこと度々で、現在の建物は文久3年(1863)の再建である。
明治になり、行政官の指導によって青厳寺を金剛峯寺と改めることとなり、さらに隣接する興山寺を合併して高野山の本坊・宗務の中心となった。住職を座主と呼び、高野山真言宗の管長が就任する。
因みに、興山寺も豊臣秀吉ゆかりの寺で、天正18年(1590)秀吉の命により、木食応其が建立した。後に応其の住坊となった。高野三方のうち、青厳寺は学侶方を、興山寺は行人方を統括していた(聖方は大徳院)。
山門を入ると大主殿がある。高野山最大の木造建築で、屋根は檜皮葺。大広間では重要な法要が営まれ、持仏間には本尊・弘法大師の両脇に歴代天皇の御尊牌や歴代座主の位牌が奉安されている。
大主殿 大玄関
大主殿 大玄関
平成元年の納経印 平成18年の納経印

左が平成元年、右が平成18年に拝受したもの。中央の文字は弥勒菩薩の種字「ユ」に「遍照金剛」。弘法大師は弥勒の誓願に住していることから、弥勒菩薩の種字を用いる。遍照金剛は大師の十号の一つで、本来は大日如来の別名。胎蔵・金剛界の灌頂での投華得仏の際、いずれも大日如来であったことから、恵果阿闍梨が灌頂名として授けたものである。元年の中央上と18年の中央の朱印も同じく梵字「ユ」、左下と元年の中央下は「高野山金剛峯寺之印」。

<<前へ 高野山・東寺へ 次へ>>


2007.12.30
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.