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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

氣比神宮
けひじんぐう

氣比神宮大鳥居

氣比神宮 (けひじんぐう)
御祭神 伊奢沙別命 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 武内宿禰命 日本武尊 玉妃命
鎮座地 福井県敦賀市曙町11−68 (Mapion/googlemap
社格等 式内社(名神大) 越前国一宮 旧官幣大社 別表神社
公式サイト http://kehijingu.jp/

氣比神宮の御由緒

越前国一宮で、北陸道総鎮守と称する。延喜の制では祭神七座ともに名神大社に列せられている。また、境内社のうち摂社の角鹿〔つぬが〕神社をはじめ、大神下前〔おおみわしもさき〕神社、天利剣〔あまのとつるぎ〕神社、天伊弉奈彦〔あめのいざなひこ〕神社、天伊弉奈姫〔あめのいざなひめ〕神社が式内社である。

伊奢沙別命は笥飯(気比)大神〔けひのおおかみ〕、御食津大神〔みけつおおかみ〕とも称し、古くから当地に鎮座する神である。残りの祭神6柱は後に合祀されたという。

文献上では、『古事記』に応神天皇が太子の頃、禊ぎを行うために武内宿禰に伴われて角鹿(敦賀)へ赴いた際、夢に伊奢沙和気(伊奢沙別)大神が現れ、名前を交換したいと申し出たことが記されている。応神天皇はその名を称えて「御食津神」と名付けたことから、気比大神と称するようになったという。

また『日本書紀』には、神功皇后が武内宿禰・皇子誉田別尊(応神天皇)らに角鹿の笥飯大神を参拝せしめたこと、応神天皇が太子として初めて角鹿に赴いて笥飯大神を拝した際、大神と名前を交換したこと、持統天皇6年(692)神封20戸を寄進したことなどが記されており、古くから北陸の大社として重んじられていたことが伺われる。

社伝によれば、伊奢沙別命は二千年余り前に天筒山に降臨した後、現在「土公〔どこう〕」と称される境内の聖地に鎮座した。その後、大宝2年(702)社殿が造営され、仲哀天皇と神功皇后を合祀して本宮とした。その後、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に、玉姫命を平殿宮に、武内宿禰を西殿宮に祀って四社之宮と称した。

朝廷・武門の崇敬極めて篤く、宝亀元年(770)の中臣葛野連飯麻呂をはじめ、勅使による奉幣がたびたびであった。『新抄格勅符抄』の大同元年牒(806)には神封234戸と見える。承和6年(836)に正三位勲一等から従二位に進み、嘉祥3年(850)に正二位、貞観元年(859)従一位、宇多天皇の御代には正一位勲一等となっている。また承和7年(840)には御子神の天利剣神(天利剣神社)・天比女若御子神(天伊弉奈姫神社)・天伊佐奈彦神(天伊弉奈彦神社)に従五位下が奉授されている。

正安3年(1301)遊行上人2世の他阿真教上人が敦賀に滞在した際、気比社の西参道のあたりが沼地で、参拝者が難渋していることを知り、上人自らが先頭に立って、神官・僧侶・信者らとともに浜から砂を運んで道を改修した。この故事に因み、今も時宗の総本山・清浄光寺の遊行上人が交代したときには「遊行上人のお砂持神事」が行われる。

延元元年(1336)大宮司・気比氏治・斎晴父子は金ヶ崎城に後醍醐天皇の皇子である尊良親王・恒良親王を迎えた。しかし翌2年(1337)高師泰率いる足利軍6万余が押し寄せ、奮戦虚しく落城、尊良親王・新田義顕らとともに自害した。現在、金崎宮の摂社・絹掛神社に祀られている。

元亀元年(1570)織田信長の越前侵攻に際して大宮司・気比憲直は国主・朝倉氏を支援し、一族・神兵・社僧を挙げて天筒城に立て籠もり、織田の軍勢と激戦を演じた。そのため社殿・寺坊は焼失、社領は没収されて48家の祠官、36坊の社僧は離散して、祭祀は廃絶した。

その後、慶長19年(1614)越前藩主となった結城秀康は社殿を再建し、社家8家を再興、社領100石を寄進した。この社殿は明治39年(1906)旧国宝に指定されたが、惜しくも昭和20年(1945)戦災のために焼失した。なお、大鳥居は正保2年(1645)の建造で明治34年(1901)旧国宝に指定、現在は重要文化財である。

明治4年(1871)国幣中社に列格、同28年(1895)官幣大社に昇格、さらに神宮号を宣下されて気比神宮と称する。昭和20年(1945)空襲のために社殿その他の諸施設が焼失。同25年(1950)本殿、同37年(1962)拝殿を再建。同57年(1982)以降「昭和の大造営」として本殿を改修、幣殿・拝殿・儀式殿等が造営され、平成に入って四社の宮が再建された。

摂社の角鹿神社は都怒我阿羅斯等命〔つぬがあらしとのみこと〕を祀るが、敦賀(古くは角鹿〔つぬが〕)の地名はその名に因むとされる。都怒我阿羅斯等命は任那の王子で、崇神天皇の御代に気比の浦に上陸し、貢ぎ物を奉った。そこで天皇は気比神宮の司祭とこの地の統治を委ねたという。その政所の跡に創建されたのが角鹿神社の創祀とされる。末社の大神下前神社は大己貴命を祀る。気比大神四守護神の一で、もとは天筒山の麓に祀られていたが、明治になって現在地に遷座したという。

高野山・丹生都比売神社の気比明神は、弘法大師が末社・金〔かねの〕神社の霊鏡を遷したものとされる。末社・林神社は越中国礪波郡の式内社・林神社と同体で、伝教大師がこの社の霊鏡を遷したのが日吉大社の末社(下七社)・気比社であるという。

氣比神宮の御朱印

氣比神宮の御朱印

中央の朱印は「氣比神宮」、右上は「越前之國一宮」。

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氣比神宮の概要

名称  氣比神宮 
旧称  氣比神社 
御祭神 伊奢沙別命〔いささわけのみこと〕
仲哀天皇〔ちゅうあいてんのう〕
神功皇后〔じんぐうこうごう〕
応神天皇〔おうじんてんのう〕
武内宿禰命〔たけのうちのすくねのみこと〕
日本武尊〔やまとたけるのみこと〕
玉妃命〔たまひめのみこと〕
鎮座地 福井県敦賀市曙町11−68
創建年代 不詳
社格等 式内社 越前国一宮 旧官幣大社 別表神社
延喜式 越前國敦賀郡 氣比神社七座 並名神大
越前國敦賀郡 角鹿神社 (摂社 角鹿神社)
越前國敦賀郡 大神下前神社 (末社 大神下前神社)
越前國敦賀郡 天利劔神社 (摂社 天利剣神社)
越前國敦賀郡 天比女若御子神社 (摂社 伊弉奈姫神社)
越前國敦賀郡 伊佐奈彦神社 (摂社 伊佐奈彦神社)
例祭 9月4日
※9月2日〜15日(敦賀祭り・気比の長祭)
神事・行事 1月15日/どんど焼き
5月4日/春季例祭
5月初卯/角鹿神社例祭
6月15日/御田植祭
6月16日/牛腸祭
7月22日/総参祭
文化財 〈重文〉大鳥居
猿田彦神社 松尾芭蕉像
末社・猿田彦神社 松尾芭蕉像
九社之宮 神明両宮
九社之宮 末社・神明両宮
摂社・角鹿神社 末社・大神下前神社
摂社・角鹿神社 末社・大神下前神社
土公 中鳥居
土公 中鳥居
拝殿 本殿
拝殿 本殿

メモ
境内入り口、西に面して重要文化財の朱の大鳥居が建つ。笠木の美しい反り、島木に打たれた金の菊・桐・三つ巴の神紋が印象的である。
参道を進むと気比氏治の挙兵ゆかりの旗掲の松があり、その左手に中鳥居がある。中鳥居をくぐると南面して社殿が鎮座している。本殿を囲むように四社之宮が建つが、よく見えない。また、社殿の西側には神明両宮と式内社を含む九社之宮、東に進むと摂社・角鹿神社、末社の児宮、大神下前神社がある。境内東北には土公があり、その手前には遙拝所が設けられている。
戦災のため、大鳥居以外、古い建築物はほとんど残っていないのだが、大社としての風格を漂わせる境内である。

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2012.05.23
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