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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

吉備津彦神社
きびつひこじんじゃ

吉備津彦神社 (きびつひこじんじゃ)
御祭神 大吉備津彦命 〈相殿〉吉備津彦命 孝霊天皇 孝元天皇 開化天皇 崇神天皇 彦刺肩別命 天足彦国押人命 大倭迹々日百襲比売命 大倭迹々日稚屋比売命 金山彦大神 大山咋大神
鎮座地 岡山市北区一宮1043 (Mapion/googlemap
社格等 備前国一宮 旧国幣小社 別表神社

吉備津彦神社の御由緒

吉備中山の麓、備中一宮の吉備津神社から1kmほどのところに鎮座する。

御祭神・大吉備津彦命は、孝霊天皇の皇子で四道将軍の一人として遣わされ、吉備国を平定した。社伝によれば、崇神天皇の御代(B.C.97〜B.C.29)または推古天皇の御代(593〜628)、その屋敷跡に社殿を建立して祀ったことに始まるという。

とはいえ、備後の吉備津神社の由緒などを考え合わせると、大化の改新後、吉備国が備前・備中・備後に分けられてより以降に、備中の吉備津神社から分霊を迎えたものと考えるのが妥当であろう。ただし、付近には磐座や古墳があり、当地がそれ以前からの祭祀の場であった可能性は高い。

古くから朝廷の崇敬を受け、承和7年(840)には神階一品を贈られている。勅営による社殿の改修もたびたびであった。延喜式神名帳には記載されていないが(備後の吉備津神社も同様)、これは備中の吉備津神社の分社ということで同一視されていたからではないだろうか。

中世においては備前国一宮された。武門からも篤い尊崇を受け、足利氏・赤松氏や岡山藩主・池田氏などが社殿の造営や寄進を行っている。神仏習合時代には本宮・摂末社など51の堂宇を数えたという。

昭和3年(1928)国幣小社に昇格。この頃、社号を吉備津彦神社に改めたのではないかという。

大鳥居 随神門
平安杉 本殿
摂社・子安社 末社・温羅神社

メモ
大鳥居をくぐると、参道の左右に神池が広がり、鶴島・亀島が浮かぶ。吉備中山を背に鎮まる社殿を正面に、心落ち着くたたずまいである。夏至の日には大鳥居より太陽が昇り、その光が幣殿の御鏡に差し込むという。
初めての参拝時は暑い夏の午後、二度目の参拝時は例大祭の前日で、参道から境内、摂末社に至るまで提灯がずらりと掲げられていた。
拝殿の前には神木の平安杉。樹齢千年を越すという。昭和初めの社殿火災で火にあぶられ、倒木の危険があったが、先年、手術治療が行われたという。拝殿と本殿の間には、大きな渡殿と祭文殿がある。岡山の神社には立派な幣殿を備えているところが多いが(拝殿より立派なことさえある)、その源流はこのあたりであろうか。
摂末社も多い。摂社の子安神社は縁結び・子授け・安産・育児の霊験で知られる。名君・池田光政公は、池田利隆公がここで祈願して授かったという。
また、大吉備津彦命は桃太郎のモデルとされており、命に征伐された温羅が桃太郎に退治された鬼だと考えられている。末社の温羅神社には温羅の和魂を祀る。

吉備津彦神社の御朱印

中央の墨書は「吉備津彦神社」。右上の朱印は「吉備之国一宮」、中央上の朱印は十六菊と七五の桐の神紋、下は「吉備津彦神社」。

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吉備津彦神社の概要

名称 吉備津彦神社
旧称 吉備津宮 吉備津神社 気比太神宮
御祭神 大吉備津彦命〔おおきびつひこのみこと〕
〈相殿〉
吉備津彦命〔きびつひこのみこと〕
孝霊天皇〔こうれいてんのう〕
孝元天皇〔こうげんてんのう〕
開化天皇〔かいかてんのう〕
崇神天皇〔すじんてんのう〕
彦刺肩別命〔ひこさしかたわけのみこと〕
天足彦国押人命〔あまたるひこくにおしひとのみこと〕
大倭迹々日百襲比売命〔おおやまとととひももそひめのみこと〕
大倭迹々日稚屋比売命〔おおやまとととひわかやひめのみこと〕
金山彦大神〔かなやまひこのみこと〕
大山咋大神〔おおやまくいのみこと〕
旧称 吉備津宮 吉備津神社 気比太神宮
鎮座地 岡山市北区一宮1043
創建年代 伝・推古天皇の御代
社格等 備前国一宮 旧国幣小社 別表神社
例祭 10月第3土・日曜日
神事・行事 1月中旬/とんど祭り
3月19日/御忌日祭
4月19日/春祭
5月5日/子安神社大祭
5月第2日曜日/磐座大祭
6月夏至の日/夏至の日日の出祭
8月2日/御田植祭
10月1日/神迎神事
10月31日/神送神事
文化財 〈重文〉太刀(銘:井上真改・附:糸巻太刀拵) 〈県有形文化財〉本殿 紙本淡彩神事絵巻 〈県無形民俗文化財〉御田植祭
公式サイト http://www.kibitsuhiko.or.jp/

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2008.11.16
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