奥殿床下に定水井という深淵があり、古くはその水上に筏を浮かべて供物を供え、祭祀を行ったという。和銅2年(709)初めて社殿が建立されたと伝えられる。この深淵には龍が棲み、覗いたものは命を落とすと伝えられており、古来開かれたことがないという。
古くから朝廷の崇敬厚く、嘉祥2年(849)従五位下、元慶元年(877)正四位上、延喜式では名神大社に列し、建久元年(1190)正一位に極位する。また、讃岐国一宮として細川氏・仙石氏・生駒氏・松平氏など歴代領主の尊崇も厚かった。社領の寄進や社殿の造営がたびたびあった。領内が干ばつの時には、領主が必ず祈願したという。
当社の別当は四国83番札所一宮寺であり、元々は四国の他の一宮と同じく当社が札所であった。しかし延宝7年(1679)高松藩主で徳川光圀の子である松平頼常により神仏分離が行われ、唯一神道となった。明治4年(1871)国幣中社に列格。〈四国八十八ヶ所へ〉