中央の墨書は阿弥陀如来の種字「キリーク」に「阿弥陀如来」、脇に「弘法大師」。中央の朱印は「平塚山」か? 右は「第四十七番」、左下は「城官寺印」。
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平塚山 安楽院 城官寺 (ひらつかさん あんらくいん じょうかんじ) | |
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本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年代 | 不詳 |
開山 | 不詳 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
所在地 | 東京都北区上中里一丁目42−8 (Mapion/googlemap) |
御詠歌 | 花を見て歌よむ人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ |
メモ | 隣接する平塚明神(現・平塚神社)の旧別当。もとは安楽寺と称し、浄土宗の寺であったという。城官寺の寺号はこの寺を再興した旗本の山川城官に因む。 山川城官は平塚郷に住む無官の盲人であった。平塚明神に立身出世を祈願し、江戸に出たところ、3代将軍家光に取り立てられ、検校に任じられた。寛永10年(1933)、家光が病に倒れたとき、山川城官は平塚明神に病気平癒を祈願、病はたちどころに平癒した。その神恩に感謝し、翌11年(1634)自らの田地を寄進して平塚明神の社殿を修復するとともに、別当として安楽寺を再興した。このとき、浄土宗から真言宗に改められたという。 同17年(1640)、鷹狩りの際にこの地を通りかかった家光は、平塚明神と別当の堂宇が立派であるため、誰が造営したかを尋ねたところ、山川城官が将軍の病気平癒の奉賽として建立したものであることを聞いた。家光はその行いを讃え、山川城官に知行地200石、平塚明神に朱印地50石を与えた。また、寺号を平塚山安楽院城官寺とした。 境内には山川城官の供養碑や将軍家の侍医・多紀氏の墓などがある。また、手水舎にはピカチュウの石像があった。山門の「平塚山」の額は田中角栄元首相によるものだとのこと。 参拝時、法要の後のようであったが、納経をお願いすると本堂に案内され、読経をしていただいた。丁寧な応対に感謝。 |
写寺 | 熊野山 八坂寺 |
八十八ヶ所大意 | 平塚山 安楽院 城官寺 上中里村平塚別当 〈本尊〉阿弥陀如来 毘首羯磨作 〈朱印地〉五十石 〈末寺〉門徒二ヶ寺 音羽護国寺末 |
山門 | 手水鉢とピカチュウの石像 |
中央の墨書は阿弥陀如来の種字「キリーク」に「阿弥陀如来」、脇に「弘法大師」。中央の朱印は「平塚山」か? 右は「第四十七番」、左下は「城官寺印」。
2010.02.10
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