中央の墨書は「大山積大神」。中央の朱印は「折敷に三文字」の神紋に「御璽」の文字、左下は「別宮大山祇神社」。
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別宮大山祇神社 (べっくおおやまづみじんじゃ) | |
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御祭神 | 大山積大神〔おおやまづみのおおかみ〕 |
別称 | 三島地御前 別宮 |
創建年代 | 和銅5年(712) |
創建 | 越智玉澄 |
所在地 | 愛媛県今治市別宮町三丁目6−1 (地図表示:マピオン) |
御詠歌 | 詣でてのみかげはしるし今日もまた 三島の神は祈る楽しさ |
メモ | 伊予国一宮の大山祇神社は、四国本土より海上7里の大三島に鎮座し、参拝に不便であった。そこで和銅5年(712)越智玉澄〔おちのたますみ〕が別宮・地御前〔じごぜ〕として御分霊を勧請したことを創祀とする。 正治年間(1199〜1201)には大山祇神社の法楽所24坊のうち、南光坊など8坊が別宮に移され、大積山光明寺と称した。しかし、天正年間(1573〜93)の兵火で焼失し、最も小さかった南光坊のみが復興された。 本来、大山祇神社が四国霊場の札所であったが、参拝が不便であることから別宮が前札所とされた。『四国辺路道指南』などでも、大三島の前札所であることを断った上で別宮が紹介されている。御詠歌も別宮のもののみが残り、三島本宮のものが残っていない(あるいは「ない」)ことを考えると、かなり早い時点で事実上の札所となっていたのではなかろうか。 江戸時代までは別宮を札所として光明寺南光坊が納経を司っていたが、明治の神仏分離により、神社と寺は分けられ、南光坊が札所となった。しかし、境内はほとんどつながっており、かつての一体であった時代の名残をとどめている。また、国道沿いに並ぶ別宮の鳥居と南光坊の山門には、同じく「日本総鎮守 三島地御前」の扁額がかかる。 四国曼荼羅霊場の発足に際しては、その40番札所となった。〈諸国神社御朱印集へ〉 |
大鳥居 | 拝殿 |
阿奈婆神社 | お佐遠大明神 |
中央の墨書は「大山積大神」。中央の朱印は「折敷に三文字」の神紋に「御璽」の文字、左下は「別宮大山祇神社」。
2008.10.31
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