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古今御朱印研究室

四国八十八ヶ所

元第55番本札所
大山祇神社
おおやまづみじんじゃ
附・東円坊
とうえんぼう

大山祇神社 (おおやまづみじんじゃ)
御祭神 大山積大神〔おおやまづみのおおかみ〕
旧称 大山積神社 大山積大明神 三島大明神 大三島宮
創建年代 伝・神武天皇の御代/仁徳天皇の御代
創建 小千命
所在地 愛媛県今治市大三島町宮浦3327 (地図表示:マピオン)
御詠歌
メモ 伊予国一宮。日本総鎮守とも称される全国の大山祇神社・山神社・三島神社の総本社。
創建については、神武天皇の東征に先立って四国に渡った小千命〔おちのみこと〕が大山積大神を奉斎したとも、仁徳天皇の御代に百済国から渡来して摂津の御嶋〔みしま〕(現・高槻市の三島鴨神社)に鎮斎され、その後大三島に勧請されたとも伝えられる。
古くから朝廷、武将の崇敬篤く、特に越智・河野氏は氏神として深く尊崇した。また村上氏をはじめとする瀬戸内の水軍の信仰も集めた。歴代の武将が奉納した甲冑・武具類を多数蔵し、「国宝の島」とも呼ばれる。
当社は四国の他の一宮と同じく、四国霊場の札所であった。しかし、参拝が困難であることから、本土側の別宮・地御前〔じごぜ〕である別宮大山祇神社〔べっくおおやまづみじんじゃ〕が前札所とされていた。別宮の御詠歌はあるが、三島本宮の御詠歌が残っていないことから考えて、かなり早い時点で別宮が事実上の札所となっていたと思われる。現在は別宮の旧別当・南光坊が札所である。
かつての大山祇神社は神仏習合色が強く、本地仏は大通智勝仏〔だいつうちしょうぶつ〕である。塔頭は24坊を数え、そのうち8坊は別宮に移された。現在は別宮の南光坊と大三島の東円坊のみが残る。
河野氏の嫡子が代々名前に「通」の字を使うのは、河野通清の母が当社に祈願して身籠もったことから「神に通じた」の意で用いるようになったとされるが、大通智勝仏の「通」にあやかったとも考えられよう。また、この比較的珍しい仏(『法華経』化城喩品〔けじょうゆほん〕に登場する)を本地としたのも、「越智」の字と共通点を感じたことから選ばれたのかもしれない。
明治の神仏分離により、旧神宮寺は廃寺となったが、本堂はそのまま大山祇神社の祖霊殿となり、地元の人からは「神宮寺」と呼ばれていた。しかし平成4年(1992)左翼過激派による放火のため焼失。その後、現在の祖霊殿が再建されている。
神社の西250mほどのところに神宮寺の奥の院がある。小さな阿弥陀堂だが、その前に県指定天然記念物の「生樹の御門〔いききのごもん〕」がある。根回り31mの楠木で、根本が分かれて自然の洞門となり、奥の院への参道となっているので(石段が通っている)生樹の御門と呼ばれる。
神社の南200mほどのところには、東円坊がある。大三島にただ一つ残った旧神宮寺の塔頭である。越智為澄の次男・妙尊が役行者の法を学び、社の近くに一宇を建立し、その子が東円坊を称したことに始まるという。東円坊は代々、大三島宮の供僧を統括する検校職を任ぜられていた。本尊は阿弥陀如来だが、神仏分離後、大山祇神社の本地仏であった大通智勝仏が移されている。
現在は無住で、地域の人たちによって管理されている。納経は、平成18年に担当の方が亡くなったそうで、平成19年の時点ではしていないとのことであった(曼荼羅霊場41番の光林寺が兼務しているが、そちらでは扱っていないとのこと)。ただ、遺族の方に伺ったところ、落ち着いたらお寺さんや地域の人とも相談して考えたいとのことだったので、いずれいただけるようになるかもしれない。(地図表示:マピオン
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能因法師雨乞いの松 祖霊殿(旧・神宮寺跡)
一遍上人寄進の宝篋印塔 奥の院・生樹の門
東円坊 大通智勝仏坐像(左)

中央の墨書は「大山祇神社」。右上の朱印は「延喜式内社伊豫國一之宮」、中央は「日本総鎮守大山祇神社之印」。

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2008.10.31
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