江戸時代までは「鹿嶋」と表記することが多かったようである。古くは「香嶋」などとも書かれた。
御祭神・武甕槌大神は、天孫降臨に先立って、香取神宮の経津主大神とともに、大国主命と国譲りの交渉を行った。その後、東国を開拓・平定して、鹿島の地に鎮座したと伝えられる。東北地方の平定にも神威を示し、常陸国・陸奥国には鹿島の御子神社が祀られる。
古くから国家鎮護の神として朝廷の崇敬篤く、また、中臣(藤原)鎌足が鹿島の地で生まれたと伝えられることから、春日大社の創建に際しては第一殿に迎えられた。武神として武将や武道家の尊崇も篤い。
神武天皇の東征に際しては、熊野で病に倒れた天皇の軍勢に対し、高倉下を通じてフツの霊剣を降して危難を救った。この剣は崇神天皇の御代、石上神宮に奉斎された。鹿島神宮にはその代わりに制作されたという直刀が伝わり、国宝に指定されている。
『常陸国風土記』によれば、崇神天皇の御代、大坂山に白妙の服を着け、白鉾を持った神が現れて、我が前を納めれば天王の治める国々を平安にすると告げた。いかなる神かと群臣に問うと、大中臣神聞勝命が香嶋(鹿島)国に坐す天津大御神だと答えたので、神聞勝命を派遣して奉幣し、太刀十口、鉾二枚、鉄弓二張などを納めた。神聞勝命はそのまま鹿島に留まって、鹿島の祭祀に仕えた。
天平勝宝元年(749)万巻上人が鹿島の宮司・中臣鹿島連大宗と大領・中臣連千徳らの協力を得て神宮寺を建立した(因みに、この後、万巻上人は多度大社の神宮寺を創建し、箱根神社を再興している)。神護景雲元年(767)藤原氏の要請により、御分霊を奈良の三笠山に祀った。春日大社の創建である。
弘仁3年(812)香取神宮・住吉大社とともに、二十年に一度の式年造替は正殿のみ行うことが定められた。社伝によれば、式年造替は大宝元年(701)に始まり、最初はすべての社殿が建て替えられていたようである。
平安時代も朝廷の崇敬極めて篤く、延喜式では名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に預かっている。延喜式で、伊勢の神宮以外に神宮号が許されているのは鹿島と香取のみである。
中世には源頼朝をはじめとして武家の崇敬が篤かった。養和元年(1181)頼朝は社領を寄進するとともに、鹿島政幹を鹿島神宮総追捕使とした。建久2年(1191)には神馬を奉納している。
嘉禎2年(1236)東国に流されていた親鸞上人が参拝している。
弘安5年(1282)文永・弘安の役に際しての蒙古降伏祈願の奉賽として幕府より社領が寄進された。
慶長10年(1605)には徳川家康が関ヶ原の合戦戦勝の奉賽として本殿を造営し、神領二千石を寄進した。元和5年(1619)には秀忠が社殿を造営し、家康が建立した本殿は奥宮の社殿とした(ともに重要文化財)。
明治3年(1870)式年の御船祭が再興され、同20年(1887)午年に奉仕することが決まった。
午年の9月2日、楼門前に設けられた行宮を出発した神幸行列は、大船津より船に乗って利根川を遡る。新島河岸で香取神宮の宮司以下祭員が乗船して御迎祭を執り行い、その後、潮来河岸へ向かう。ここで種々の芸能が奉納され、再び大船津から上陸して行宮に戻る。