『日本書紀』によれば、御祭神・経津主大神は鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神〔たけみかづちのおおかみ〕とともに天降り、大国主命と国譲りの交渉をしたとされる。その後、東国各地を平定し、この地に鎮まった。社伝によれば神武天皇18年(A.D.643)の鎮座という。
古代、霞ヶ浦・北浦一帯は香取の海と呼ばれる内海であり、香取・鹿嶋の両神宮は、その入口を抑える軍事的にも重要な拠点であった。そのため、古くから朝廷の崇敬極めて篤く、延喜式において神宮の名を称するのは、伊勢の皇大神宮の他では香取・鹿島の両神宮のみである。
古くより祭神の子孫である香取氏が大禰宜〔おおねぎ〕として累代仕えた。後に大中臣氏が宮司を世襲するようになり、以来、江戸時代まで両氏が祭祀を司った。
神護景雲2年(768)経津主大神は春日大社の第二殿に迎えられている。弘仁3年(812)には鹿島神宮・住吉大社とともに20年に一度の式年造替にあたっては、正殿のみ造替することが定められた。斉衡3年(856)には正一位勲一等に極位した。延喜式では名神大社とされ、月次・新嘗の官幣に預かっている。
中世には下総国一宮とされ、朝廷のみならず武家の崇敬も篤かった。また、武芸の神として武道家の尊崇を受けた。天正19年(1591)徳川家康は社領1千石を寄進している。また、現在の社殿は元禄13年(1700)徳川綱吉によって造営されたものである。
明治4年(1871)官幣大社に列し、昭和17年(1942)には勅祭社とされた。四方拝でも御拝の対象となっている。
12年に1度、午年には式年大祭があり、盛大な神幸祭が行われる。4月15日、氏子千人余が随行する神幸行列が津宮へ進み、鳥居河岸から御座船に乗って船上祭を行う。さらに鹿島神宮による御迎祭の後、御旅所へ。翌16日、行列は佐原の町を巡って、神宮へと戻る。
経津主大神の荒御魂を祀る奥宮の近くには「要石〔かなめいし〕」がある。鹿島神宮のものと同じく、地震を起こす大ナマズの頭を抑えているとされる。水戸光圀が鹿島神宮を参拝した際に掘らせたが、その根元に到達することはできなかったという。