左が常磐神社の御朱印。上の朱印は三ツ葉葵の神紋、下は「常磐神社」。
右は摂社・東湖神社の御朱印。
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常磐神社 (ときわじんじゃ) | |
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御祭神 | 高讓味道根之命〔たかゆずるうましみちねのみこと〕(義公・徳川光圀) 押健男国之御楯命〔おしたけおくにのみたてのみこと〕(烈公・徳川斉昭) |
鎮座地 | 茨城県水戸市常磐町一丁目3−1 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 明治6年(1873) |
社格等 | 旧別格官幣社 別表神社 |
由緒 | 水戸黄門として知られる水戸藩第2代藩主・徳川光圀(義公)と維新の魁として名高い第9代藩主・徳川斉昭(烈公)を祀る。 徳川光圀は初代藩主・頼房の子で、徳川家康の孫に当たる。儒学を重んじ、国体の尊厳と人倫の大義を重んじ、全国から優秀な学者を集めて『大日本史』の編纂を開始した。これは光圀の没後も歴代藩主によって受け継がれ、明治39年(1906)に完成した。また、神戸の湊川にある楠木正成の墓所に『嗚呼忠臣楠子之墓』の墓碑を建立。藩政においては、社寺改革や勧農政策、水道建設などを行った。 徳川斉昭は幕末の緊迫した時勢の中で水戸藩主となった。漢学・諸芸に通じ、藩校・弘道館や日本三公園に数えられる偕楽園の開設、反射炉の築造や大砲・火器の製造などを行った。大老・井伊直弼と激しく対立し、蟄居を命じられた。桜田門外の変から間もない万延元年(1860)8月15日、水戸城にて亡くなるが、斉昭が主張・実行した尊王攘夷運動は明治維新の実現に大きな影響を与えた。 明治の初め、水戸の偕楽園内に義公・烈公の徳を慕う人々によって祠堂が建立された。同6年(1873)勅旨をもって「常磐神社」の社号を賜り、県社に列格。翌7年(1874)現社地に社殿を建立し、5月12日に遷座祭が執り行われた。同15年(1882)別格官幣社に昇格。 昭和20年(1945)戦災により社殿が焼失、同33年(1958)現在の社殿が再建された。また平成4年(1992)戦災を免れた御鎮座当初の建物である神楽殿と神饌殿を改築して能舞台とした。 |
例祭 | 5月12日 |
神事・行事等 | 1月6日/梅まつり奉告祭 1月15日/古神札焼納祭(どんど焼き) 2月上午の日/初午祭(常磐稲荷神社例祭) 2月20日/梅花祭 4月4日/烈公誕辰祭 4月29日/植樹祭 5月4日/東湖神社例祭 7月11日/義公誕辰祭 7月24日/夏祭(御田植祭) 7月30日/献灯祭 8月9日/国旗制定記念祭 旧8月15日/名月献詠祭 12月11日/三木社例祭 |
公式サイト | http://komonsan.jp/ |
メモ | JR偕楽園駅のすぐ北側に鎮座する。もとは常磐神社の境内地も偕楽園の一部であった。境内には「大日本史完成之地」の碑、水戸藩の砲術である唯心流の伝来と神発流への発展を記した「伝万世(万世に伝うる)の碑」、溶解炉、大砲「太極」、大陣太鼓など光圀・斉昭ゆかりの碑や品が多い。 摂社の東湖神社は、徳川斉昭のもとで藩政改革に活躍し、また明治維新の志士たちに大きな影響を与えた藤田東湖を祀る。元は鎮霊社があったが、昭和16年(1941)桜山に遷座して茨城県護国神社となり、同18年(1943)跡地に東湖神社を鎮斎した。末社の三木神社は光圀の育ての親である三木之次・武佐夫妻を祀る。三木之次の子孫である三木啓二郎は松下幸之助が苦労していた時代に援助をしたことから、当社の鎮座に際しては松下幸之助が多大な寄進をしたという。また、松下電器(パナソニック)がテレビドラマの『水戸黄門』のスポンサーとなっているのも、その縁によるとのこと。 ところで「水戸黄門」といえば一般に徳川光圀のことと考えられているが、「黄門」は権中納言の唐名別称で、権中納言に叙任された水戸藩主をいう。歴代水戸藩主のうち、初代頼房、二代光圀をはじめ、7人が権中納言に叙任されているので、水戸黄門は7名いるということになる。因みに斉昭も権中納言に叙任されている。 当社では、摂社の東湖神社の御朱印もいただける。 |
参道と鳥居 | 大日本史完成之地の碑 |
傳萬世の碑 | 溶解炉 |
能舞台 | 末社 常磐稲荷神社 |
末社 三木神社 | 本殿 |
左が常磐神社の御朱印。上の朱印は三ツ葉葵の神紋、下は「常磐神社」。
右は摂社・東湖神社の御朱印。
2012.06.13
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