中央の朱印は「下野国 那須湯 延喜式内温泉神社」、右下のスタンプは「那須餘一祈願社」。
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温泉神社 (おんせんじんじゃ) | |
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御祭神 | 大己貴命〔おおなむちのみこと〕 少彦名命〔すくなひこなのみこと〕 〈配祀〉 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 |
鎮座地 | 栃木県那須郡那須町大字湯本182 (地図表示:マピオン) |
創建年代 | 舒明天皇2年(630) |
社格等 | 式内社 旧郷社 |
由緒 | 社伝によれば、舒明天皇の御代、茗荷沢村の住人・狩野三郎行広が矢傷を負わせた子牛ほどの白鹿を追い求め、那須岳の麓・霧生谷(元湯付近)に至った。すると岩上に白髪の老翁が現れて温泉の神であると名乗り、鹿が谷間の温泉に浸かって傷を癒していること、その温泉は万病を治す効験が甚だしいこと、このことをよろしく聞いて万民の病苦を救うべきことを告げた。三郎は教えの通りに温泉を見つけ、その傍らに神社を建立した。これが当社の創祀であるという。 正倉院文書に中央の官人が那須へ湯治に向かった記録が残ることから、すでに奈良時代には湯治場として中央にも知られていたことがわかる。『三代実録』貞観5年(863)10月7日条には下野国従五位上勲五等温泉神に従四位下を授けるとあり、同11年(869)には従四位上に進められている。後に貞享3年(1686)正一位に叙せられた。延喜の制では小社に列する。 当社は特に、那須与一が深く崇敬したことと殺生石で広く世に知られる。当社のオリジナル御朱印帳でも、表に扇の的を射る那須与一、裏に殺生石が描かれている。 那須与一宗隆は那須太郎資隆の十一男である。源義経に従い、平家追討のため西国に赴いた。屋島の合戦において、平氏の側から美女を乗せた小舟が漕ぎ出され、舳先に立てた扇の的を射よと差し招いた。義経の命を受けた与一は、「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中射させてたばせ給え」と祈念し、見事に扇の的を射た。凱旋の後、奉賽として社殿・玉垣・鳥居を新たに建立し、一門をあげて崇敬したという。 後に当地は那須氏の重臣であった大関氏の領有するところとなり、黒羽藩として明治維新を迎えるが、歴代当主も深く崇敬し、社領20石を奉献するとともに、祭礼には藩主自ら参拝したという。 殺生石は社殿の後方にある。 鳥羽天皇の寵愛を受けた玉藻前(実は白面金毛九尾の狐)が安倍泰成によって正体を暴かれ、那須野に逃れた。上皇は九尾の狐を討伐するために8万の軍勢を派遣、ついにこれを退治した。ところが、狐は巨大な石と化して瘴気を発し、近づく人間や動物の命を奪った。至徳2年(1385)源翁心昭(玄翁和尚)がこれを打ち砕いたとされる。 那須岳の頂上には奥宮の那須嶽神社が鎮座し、大己貴命・少彦名命を祀るという。 |
例祭 | 10月8〜9日 ※10月8日/湯汲祭・献湯祭 ※10月9日/献幣祭・神幸祭 |
神事・行事 | 4月24日/愛宕神社例祭 5月8日/開山祭 5月27日/見立神社例祭 11月8日/閉山祭 |
メモ | 那須湯本の温泉街を抜けたところに鎮座する。参拝したのは9月初めの日曜日で、黒磯駅からバスを使ったのだが、観光客の車が多く、思った以上に時間がかかった。神社や殺生石も観光客が多かった。 とはいえ、暑い下界を離れた高原だけあり、緑とさわやかな風に癒される別天地。バスの本数が限られていることもあり、しばらく参道でたたずんでいると、人の流れも減って、ゆっくりと楽しむことができた。ただし、やはり社殿付近や殺生石は、殺生石付近の駐車場からの観光客がほとんど途絶えることがなかったが。 鳥居から本殿へは一直線の参道で、両脇に境内社の見立神社や愛宕神社、御神木、祖霊社などがある。見立神社は那須温泉を発見した狩野三郎行広が天児屋根命を祀ったもので、後に狩野三郎行広を合祀したものという。祖霊社は日清・日露戦争から太平洋戦争に至る氏子戦没者と地元神葬祭家の祖先を祀る。 |
一の鳥居 | 見立神社 |
愛宕神社 | 祖霊社 |
御神木「生きる」(ミズナラ) | 神馬 |
九尾稲荷神社 | 本殿 |
殺生石 | 千体地蔵 |
中央の朱印は「下野国 那須湯 延喜式内温泉神社」、右下のスタンプは「那須餘一祈願社」。
2012.03.20
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