上の朱印は「二宮神社之印」、下は「寒川神社之印」。
古今宗教研究所 >古今御朱印研究室 > 諸国神社御朱印集 > 千葉県
拝 殿
二宮神社 (にのみやじんじゃ) | |
---|---|
御祭神 | 建速須佐之男命〔たけはやすさのおのみこと〕 〈配祀〉 櫛稲田比売命〔くしなだひめのみこと〕 藤原時平命〔ふじわらのときひらのみこと〕 大雀命〔おおささぎのみこと〕 誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕 |
旧称 | 寒川神社 二宮大明神 三山明神社 |
鎮座地 | 千葉県船橋市三山五丁目20−1 (地図表示:マピオン) |
創建年代 | 弘仁年間(810〜24) |
社格等 | 式内論社 旧郷社 下総国二宮 |
由緒 | 旧・千葉郡三山村に鎮座する。下総国二宮であり、延喜式の下総国千葉郡寒川神社に比定される。このことから、寒川神社二宮大明神とも称されてきた。ただし、下総国二宮については旭市の玉崎神社を当てる説もあり、式内・寒川神社については千葉市中央区の寒川神社とする説もある。 社伝によれば、弘仁年間(810〜24)嵯峨天皇の勅により創建された。治承4年(1180)藤原師経が下総に左遷されたとき、先祖の藤原時平を相殿に祀ったという。 三山村近郷23ヶ村の鎮守として崇敬され、徳川幕府からも朱印領10石を寄進されていた。現在の社殿は安永年間(1772〜81)とのこと。 当社は「下総三山の七年祭」でも知られる。この祭は七年毎、丑年と未年の11月に、この地方の神社の神輿が二宮神社の神揃場に集まって祭典を行うものである。 その起源は、室町時代の中頃に遡る。当時、この地方を領していた馬加城主・馬加康胤(千葉康胤とも)は、奥方が懐妊して11ヶ月になるにもかかわらず、いっこうに出産の気配がないことを心配していた。そこで、三山の二宮神社、畑の子安神社、馬加の子守神社、武石の三代王神社の神主に命じ、馬加村の海岸で安産の祈祷をさせた。その結果、無事男児を出産し、これを喜んだ康胤は、奉賽として二宮神社で領内挙げての大祭を行わせた。この安産の祈祷とお礼の祭礼を式年の大祭として行うようになったという。 現在、この祭に参加するのは、二宮神社の他、子安神社(千葉市花見川区)、子守神社(同)、三代王神社(同)、菊田神社(習志野市)、大原大宮神社(同)、高津比盗_社(八千代市)、時平神社(同)、八王子神社(船橋市)と4市にまたがる九つの神社である。 |
例祭 | 10月16日 |
神事・行事 | 1月7日/御射初祭(おびしゃ) 丑・未年の11月3日/式年祭(下総三山の七年祭) |
文化財 | 〈県無形民俗文化財〉下総三山の七年祭 |
メモ | 由緒に登場する藤原師経は、後白河法皇の近臣・西光の子で鹿ヶ谷の陰謀事件に連座した人物と思われるが、史実では治承元年(1177)六条河原で斬首となっている。当地には、この人物が一族とともに落ち延びてきたという伝承があるようだ。 なお、左大臣・藤原時平は菅原道真を太宰府に左遷した中心人物である。この地方には師経に関する伝承、また時平の妻と娘が流れ着いたという伝承から、時平を祀る神社が多い。 当社の参道は、ちょっと珍しい。鳥居をくぐると坂を下る。さらに進んで石段を上ると社殿がある。この低地を流れる小川は習志野市の菊田神社の池に通じていると伝えられているとのこと。因みに、伝承に寄れば、藤原師経は菊田神社のあたりに漂着し、しばらく滞在した後、三山に来たという。 |
鳥居 | 本殿 |
上の朱印は「二宮神社之印」、下は「寒川神社之印」。
2008.03.23
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.